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断髪した川島芳子 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『男装の麗人 〜川島芳子伝〜』(文芸春秋社)* 昭和6年11月16日(1931年。 づけ「東京朝日新聞」は、「風雲のたゞ中へ飛込む川島芳子嬢」という見出しで川島芳子(24歳)について報じました。彼女が大々的に報じられたのはこれが初めてでしょうか。満州事変勃発のおよそ2ヶ月後です。 この、“男装の麗人”とマスコミでもてはやされ、小説や映画にもなった川島芳子とは何者なのでしょう? 芳子(違う川島が出てくるので以下も芳子)は16年後に銃殺刑に処されますが、彼女が何をやったというのでしょう? 正義の味方のそぶりで「三国干渉」してきた列強も、一皮むけば“自国ファースト”で、清国に侵略し、清国は分割の危機にさらされます。安価な商品の流入によって農村は疲弊、侵略とともに入ってきたキリスト教も急速に広まって、それらに反発して起こったのが「義和団の抵抗」(明治33-34年。「義和団の乱」と呼ばれるが列強の侵略が原因なのに“乱”はおかしい)です。清国の
その清朝が、明治45年、辛亥革命により滅亡し、清朝276年の歴史に幕が下ります。清朝最後の皇帝が、映画「ラストエンペラー」で知られる
善耆(45歳)は通訳の
旅順・大連を租借していたロシアの南下を食い止める名目で日本が起こした日露戦争に日本は勝利し、本家の中国はそっちのけに、ロシアの利権をひきつぐ形で、遼東半島(関東州)の租借権、満州南部の鉄道の経営権の大部分、朝鮮半島の監督権、それらに付随する炭鉱の採掘権、森林の伐採権などを得て、「関東軍」(租借地や鉄道や日本からの移民を守る名目の軍隊。最初は1万人ほどだったがのちに70万人ほどに膨れ上がる)の駐留も認めさせます。 昭和6年9月、日本の謀略によって満州事変が勃発すると、世界からも、日本政府からも、陸軍の中枢からさえ、反対の声があがります。満州国設立を企図する人たちは、列強の直接的利害が少ない満州ではなく、列強が租界をもつ上海でことを起こしてそちらに耳目を集めようとしました。関東軍参謀・板垣征四郎(46歳)は上海駐在武官(少将)・田中
抗日運動の拠点で中国労働者を買収し、托鉢して歩く日本人僧侶と信徒5名を襲撃させ(2名死亡、3名重傷)、次に、上海在住の日本人による支那義勇軍団に資金を渡して襲撃グループに報復させます。これらを芳子が裏で操りました。“事変”などというと小競り合いのイメージですが、1ヶ月あまりの戦闘で、中国側に4,000名超の戦死者と6,000名超の民間人死者、15,000近い行方不明者が出ました(日本側の戦死者は769名)。日露戦争以来の大戦闘だったのです。 目くらましが功を奏してか、同年(昭和7年)3月1日、満州国の建国が宣言されました。関東軍の侵略行為を批判した犬飼 毅首相は海軍将校・古賀清志らの凶弾に倒れます(「五・一五事件」)。 強硬な満蒙作戦を企画実行した「関東軍」、それを追認した日本政府・昭和天皇と、満州国で清朝を復活させようとした芳子ら旧清朝関係者は、この時点では利害が一致したのでした。 その頃、中国通の小説家・村松
芳子らは満州国に清朝復興の夢を託しましたが、蓋を開けてみたら、満州国は日本の傀儡で、芳子はすでに昭和9年頃から日本軍に対して批判的態度を取るようになります。彼女は日本軍や警察の監視下に置かれました。日本軍による芳子抹殺計画まであったようです。当時親交した
・・・僕のようになってはいけない。今の僕を見てみろ。利用されるだけされて、ゴミのように捨てられる人間がここにいる・・・ 昭和20年、日本は敗戦し、満州国も滅亡、芳子は同年10月、中国国民党軍に逮捕されました。梢風の『男装の麗人』には誇張やフィクションも含まれていましたが、それも証拠とされ、日本軍への協力者として芳子に死刑の判決がおります。本多まつ江(55歳。日本在住時の芳子の家庭教師)などが助命嘆願運動をしましたが、昭和23年3月25日(芳子40歳)、銃殺されました。田中は昭和47年まで生き、本多は芳子の処刑後12年して教誨師となり「死刑囚の母」と呼ばれるようになったとのこと。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |