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男装の麗人(昭和22年10月22日、川島芳子に死刑の判決がおりる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

断髪した川島芳子 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『男装の麗人 〜川島芳子伝〜』(文芸春秋社)*


昭和6年11月16日(1931年。 づけ「東京朝日新聞」は、「風雲のたゞ中へ飛込む川島芳子嬢」という見出しで川島芳子(24歳)について報じました。彼女が大々的に報じられたのはこれが初めてでしょうか。満州事変勃発のおよそ2ヶ月後です。

この、“男装の麗人”とマスコミでもてはやされ、小説や映画にもなった川島芳子とは何者なのでしょう? 芳子(違う川島が出てくるので以下も芳子)は16年後に銃殺刑に処されますが、彼女が何をやったというのでしょう?

正義の味方のそぶりで「三国干渉」してきた列強も、一皮むけば“自国ファースト”で、清国に侵略し、清国は分割の危機にさらされます。安価な商品の流入によって農村は疲弊、侵略とともに入ってきたキリスト教も急速に広まって、それらに反発して起こったのが「義和団の抵抗」(明治33-34年。「義和団の乱」と呼ばれるが列強の侵略が原因なのに“乱”はおかしい)です。清国の 西太后せいたいごうも義和団を支持しました。しかし、2ヶ月足らずのうちに、8カ国連合(英、露、独、仏、米、日、伊、墺)が制圧し、北京に入城。西太后、光緒帝こうしょてい (11代皇帝。西太后の甥)、清王朝世襲家の筆頭・ 肅親王しゅくしんおう家第10代・善耆ぜんきらは西安 シーアン map→に逃れました。その肅親王の娘(清朝第14王女愛新覺羅顕㺭あいしんかくら・けんし )が、芳子の本来の姿です。

その清朝が、明治45年、辛亥革命により滅亡し、清朝276年の歴史に幕が下ります。清朝最後の皇帝が、映画「ラストエンペラー」で知られる 宣統帝 せんとうてい (12代皇帝。 溥儀 ふぎ )ですね。

善耆(45歳)は通訳の 川島浪速 かわしま・なにわ (46歳)の手引きで日本の租借地・旅順に逃れ、浪速を厚く信頼するようになり、日本との連携で清朝を復興させる夢を抱きつつ、娘(顕㺭、芳子)を浪速に託したのでした。芳子は大正4年(7歳)来日、川島の養女(戸籍には入っていない)として昭和2年頃(20歳頃)までの12年間日本で暮らし、モンゴル族出身のカンジュルジャブとの3年間ほどの結婚生活を経て、昭和5年頃(23歳頃)上海に渡り、満州国設立(清朝復興)のため暗躍するようになります。

川島浪速(左)と第10代肅親王・善耆(右)。浪速は、芳子と同腹の王子たちも引き取って松本で生活させた ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:「男装の麗人 川島芳子伝」(上坂冬子 文藝春秋) 浪速の家は東京北区の十条あたりから、長野県松本の浅間温泉近くに移転。芳子はその家から松本高女へ馬で通った ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:「男装の麗人 川島芳子伝」(上坂冬子 文藝春秋)
川島浪速(左)と第10代肅親王・善耆(右)。浪速は、芳子と同腹の王子たちも引き取って松本で生活させた ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:「男装の麗人 川島芳子伝」(上坂冬子 文藝春秋) 東京北区の十条あたりから長野県松本の浅間温泉近くに移転した浪速の家から、芳子は松本高女へ馬で通った ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:「男装の麗人 川島芳子伝」(上坂冬子 文藝春秋)

旅順・大連を租借していたロシアの南下を食い止める名目で日本が起こした日露戦争に日本は勝利し、本家の中国はそっちのけに、ロシアの利権をひきつぐ形で、遼東半島(関東州)の租借権満州南部の鉄道の経営権の大部分朝鮮半島の監督権、それらに付随する炭鉱の採掘権、森林の伐採権などを得て、「関東軍」(租借地や鉄道や日本からの移民を守る名目の軍隊。最初は1万人ほどだったがのちに70万人ほどに膨れ上がる)の駐留も認めさせます。

昭和6年9月、日本の謀略によって満州事変が勃発すると、世界からも、日本政府からも、陸軍の中枢からさえ、反対の声があがります。満州国設立を企図する人たちは、列強の直接的利害が少ない満州ではなく、列強が租界をもつ上海でことを起こしてそちらに耳目を集めようとしました。関東軍参謀・板垣征四郎(46歳)は上海駐在武官(少将)・田中 隆吉りゅうきち (38歳)にその旨を伝える電報と送金をし、田中は具体的な工作を芳子(24歳)にさせました。「第一次上海事変」(昭和7年1月28日〜3月3日)です。典型的な目くらましのスピン事件ですね。

抗日運動の拠点で中国労働者を買収し、托鉢して歩く日本人僧侶と信徒5名を襲撃させ(2名死亡、3名重傷)、次に、上海在住の日本人による支那義勇軍団に資金を渡して襲撃グループに報復させます。これらを芳子が裏で操りました。“事変”などというと小競り合いのイメージですが、1ヶ月あまりの戦闘で、中国側に4,000名超の戦死者と6,000名超の民間人死者、15,000近い行方不明者が出ました(日本側の戦死者は769名)。日露戦争以来の大戦闘だったのです。

目くらましが功を奏してか、同年(昭和7年)3月1日、満州国の建国が宣言されました。関東軍の侵略行為を批判した犬飼 毅首相は海軍将校・古賀清志らの凶弾に倒れます(「五・一五事件」)。

強硬な満蒙作戦を企画実行した「関東軍」、それを追認した日本政府・昭和天皇と、満州国で清朝を復活させようとした芳子ら旧清朝関係者は、この時点では利害が一致したのでした。

その頃、中国通の小説家・村松 梢風しょうふう が、中国の劇作家・ 欧陽 おうよう 予倩 よせん からの依頼を受けて、中国の第十九路軍が停戦を望んでいることを田中に伝えに行きます。梢風はそこで芳子に会い、田中からは逆に芳子をモデルにした小説執筆を依頼されることとなります。梢風は芳子の家に2ヶ月間留まり、芳子から話を聞き、田中からも情報の提供を受け、小説『男装の麗人』を執筆、満州国建国後3ヶ月ほどした昭和7年9月より「婦人公論」に連載します。同作では、清朝王女が“男装の麗人”となって日本軍に華やかに協力する様が描かれました。“男装の麗人”のキャラやストーリーは受けに受けて、昭和9年には舞台化され(主演:(初代)水谷八重子)、芳子は「満洲のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれ、ラジオに出演したり、歌をレコーディングしたりして、人気を博していきます。この頃の大新聞は軍の太鼓持ちに化してましたので、冒頭で紹介した「東京朝日新聞」の芳子の紹介記事なども、“男装の麗人”で満州国を盛上げるべく、軍の意向を受けて書かれたものなのでしょう。

芳子らは満州国に清朝復興の夢を託しましたが、蓋を開けてみたら、満州国は日本の傀儡で、芳子はすでに昭和9年頃から日本軍に対して批判的態度を取るようになります。彼女は日本軍や警察の監視下に置かれました。日本軍による芳子抹殺計画まであったようです。当時親交した 李香蘭りこうらん(山口淑子よしこ )に芳子は次のように書き送っています。

・・・僕のようになってはいけない。今の僕を見てみろ。利用されるだけされて、ゴミのように捨てられる人間がここにいる・・・

昭和20年、日本は敗戦し、満州国も滅亡、芳子は同年10月、中国国民党軍に逮捕されました。梢風の『男装の麗人』には誇張やフィクションも含まれていましたが、それも証拠とされ、日本軍への協力者として芳子に死刑の判決がおります。本多まつ江(55歳。日本在住時の芳子の家庭教師)などが助命嘆願運動をしましたが、昭和23年3月25日(芳子40歳)、銃殺されました。田中は昭和47年まで生き、本多は芳子の処刑後12年して教誨師となり「死刑囚の母」と呼ばれるようになったとのこと。

『川島芳子 〜動乱の蔭に〜(人間の記録)』(日本図書センター) 上坂冬子 『男装の麗人・川島芳子伝 (文春文庫)』
『川島芳子 〜動乱の蔭に〜(人間の記録)』(日本図書センター) 上坂冬子『男装の麗人・川島芳子伝 (文春文庫)』
菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国 〜清末 中華民国〜(中国の歴史10) (講談社学術文庫)』 「ラストエンペラー」。伊、中、英、仏、米の合作映画。監督:ベルナルド・ベルトルッチ。出演:ジョン・ローン、坂本龍一ほか。アカデミー賞を作品賞など9部門で受賞。芳子は“悪女”に描かれている
菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国 〜清末 中華民国〜(中国の歴史10) (講談社学術文庫)』 「ラストエンペラー」。伊、中、英、仏、米の合作映画。監督:ベルナルド・ベルトルッチ。出演:ジョン・ローン、坂本龍一ほか。アカデミー賞を作品賞など9部門で受賞。芳子は“悪女”に描かれている

■ 馬込文学マラソン:
村松友視の『力道山がいた』を読む→

■ 参考文献:
●『男装の麗人』(村松友視 恒文社21 平成14年発行)P.29-37、P.103-104、P.133、P.145-149、P.216 ●『男装の麗人・川島芳子伝』(上坂冬子 文藝春秋 昭和59年初版発行 同年発行3刷参照)P.69、P.71、P.79-80 ●「清」(川勝 守)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→) ●『昭和史 1926-1945(平凡社ライブラリー)』(半藤一利 平成21年発行)P.15-20、P.94-97

※当ページの最終修正年月日
2023.11.15

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