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映画「キッド」(大正10年公開)の一場面 ※「パブリックドメインの映画(根拠→)」を使用 出典:『チャップリン 〜作品とその生涯〜(中公文庫)』 昭和7年5月14日(1932年。 チャップリン(43歳)が神戸港に到着しました。 チャップリンは映画「街の灯」(昭和6年公開。日本公開は昭和9年 Amazon→)を完成させたあと、1年と4ヶ月にもおよぶ世界旅行に出て、日本にも20日間ほど滞在。相撲を見物したり、箱根に行ったり、上野の美術館で浮世絵を見たり、銀座の天ぷら屋で海老の天ぷらを30本も食べたり(新聞に「天ぷら男」と書かれたそうだ(笑))と 、のんびりしています。 あまり言われませんが(タブーなのかな?)、この来日時、チャップリンは殺されそうになります。神戸に到着した昭和7年5月14日と言えば、「五・一五事件」の前日です。首謀者の海軍将校・古賀清志らは、犬養 健首相が晩餐会にチャップリンを招いたおり、犬養首相もろとも、チャップリンも亡き者にしようと画策していたのです(後の古賀の証言によると、米国のスターを殺害して日米関係を険悪にし、日米開戦に持ち込もうとした)。 翌15日の朝、チャップリンがいた帝国ホテルに犬養の秘書が来て、晩餐会への出席を求め、一度は承諾したものの、どうしても相撲見物がしたくなり30分後に断ります。そして結果、事件に巻き込まれずに済むのです。権威に弱く首相からの誘いを断れなかったら、チャップリンもおそらく殺されていました。
ところで、犬養はなぜ標的になったのでしょう? 日本は昭和に入って、張 作霖の爆殺、満州事変、上海事変と、謀略に謀略を重ねていました。この軍部の暴走を止めなくてはならないと犬養は考えます。マスコミも軍部の太鼓持ちと化していたので全く当てになりません。犬養は事件の2週間前(昭和7年5月1日)、ラジオで国民に直接呼びかけました。 ・・・侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことであるから、どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい・・・ 侵略を明確に否定し、平和を呼びかけたのです。戦争をやりたい人たちがこの言葉をどんな気持ちで受け取ったか容易に想像できます。犬養は水面下で中国との和平交渉も進めていました。 しかして、犬養首相と、犯人たちの侵入を防ごうとした田中五郎巡査(40歳)が殺されました(「五・一五事件」)。首謀した古賀は、禁錮15年の刑。6年後の昭和13年には恩赦により出獄、平成9年まで生きています。尾崎行雄とともに「憲政の神様」と讃えられた犬養の暗殺で、言論にもとづく政党政治は息をひそめ、暴力と恐怖が支配する軍国主義の時代となります。 首謀者に対する刑が異常に軽かったのは、日露戦争で軍功があり「軍神」と崇められた東郷平八郎(NHKドラマ「坂の上の雲」で渡 哲也がカッコ良く演じたあの人。原作者の司馬遼太郎は同作の映像化を拒否していたが、司馬の死後、映像化された)らが犯人を擁護し、司法が公正に機能しなくなったからでしょう。犯人に対し断固とした態度を取れなかったことが、「二・二六事件」など以後のテロの呼び水となりました。
チャップリンは、明治22年、英国テムズ川を挟んで、ロンドンの観光名所ビッグ・ベン(Map→)と向かい合うウォールワス(Map→)で生まれました。父親も母親もミュージック・ホールの芸人で、父親は人気歌手、母親は女優でした。2歳のとき両親が離婚、母親は精神に病み、父親も飲酒が原因で明治34年に死亡(チャップリン12歳)。チャップリンと異父兄のシドニーとは、貧民院に入ったり、路上で寝たりの毎日。チャップリン映画の弱者に対する暖かい眼差しや、社会的格差に対する風刺は、自らの生い立ちによるところが大きいでしょう。 初舞台は5歳のときで、声が出なくなった母親の代わりに歌って踊って大受け。仕事として舞台に立つのは9歳のとき。14歳で正統派の演劇の舞台でも高く評価されました。18歳で人気劇団「カーノー劇団」に入団し、その米国公演のおりにに「キーストン映画社」からスカウトされ、映画人として歩み始めます(24歳。大正2年)。大衆演劇から正統派の演劇、そして映画とわたり歩く中で経験を積み、さまざまな技能を習得、脚本・監督・作曲・演出・主演までこなす“チャップリン”の素地ができあがりました。 映画出演第1作目の「成功争い」(公開大正3年、チャップリン24歳)(YouTube→)ですでに「第一級の喜劇役者」と評され、公開第2作目の「ヴェニスの子供自動車競争」(同上)(YouTube→)ですでにトレードマークの“放浪紳士”のカッコをしています(第1作目の「成功争い」からその片鱗あり)。社会からはみ出しつつも 従来の喜劇はスラップスティック(棒(スティック)でひっぱたいたり(スラップ)追いかけたり逃げたり)などドタバタが主流だったので、役者の性格・個性・心理やドラマの動機を重視するチャップリンの喜劇が所内で必ずしも受け入れられるとは限りませんでしたが、観客からの熱狂的な支持に後押しされて、キーストンに入って1年目でもう監督を任されています(監督第1作は「恋の二十分」(YouTube→))。 最初の頃は撮影日数2日といった短編や間に合わせの作品も多々ありましたが、他社への移籍をへて、世評がさらに高まって発言力も増大、じっくり時間とお金をかけて撮影する長編も増えて、“放浪紳士”にも優しさやロマンチックさ哀愁が帯びてきます。ここらあたりからが“チャップリン”。そして、笑いと涙を誘うスタイルを確立させた「キッド」(大正10年。31歳。3年で50カ国以上で上演された映画史上初の世界的ヒット映画 Amazon→)、「残酷なまでに美しい愛の物語」(大野)の「街の灯」( Amazon→)、機械文明の非人間性を笑い飛ばした「モダン・タイムス」(Amazon→)、ヒットラーを笑い飛ばした「独裁者」(Amazon→)、老いを見つめた「ライムライト」(昭和27年。63歳)などの傑作を次々に生み出していきました。
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