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※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:「二・二六事件80年 議会機能せず 独裁招く 〜筒井清忠・帝京大教授に聞く〜」※「東京新聞(朝刊)」(平成28年2月26日号) 昭和11年2月26日(1936年。
北 一輝(52歳)の「日本改造法案大綱」の影響を受けた陸軍皇道派の青年将校ら1,483名(以下、反乱軍)が、 「昭和維新断行・ 昭和天皇(34歳)に上奏できる立場にあった総理大臣・岡田啓介、侍従長・鈴木貫太郎、内大臣・斎藤
反乱軍は宮城に入ればなんとかなると考えたようです。宮城には皇道派の重鎮・侍従武官長の ところが、中尉・ 反乱軍や侍従武官長の本庄は、昭和天皇も解ってくださると信じていましたが、昭和天皇は断固鎮圧の方針をかえませんでした。本庄は反乱軍の国を思う気持ちを認めてほしいと13回奏上しますが、昭和天皇の考えはゆらぎませんでした。本庄の日記に、昭和天皇の言葉が記されています。 朕(私)が
真綿にて朕が首を締むるにひとしき行為なり 陸軍が反乱軍の鎮圧に本腰を入れようとしないのを知ると、 朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん とまでおっしゃりました。自決を覚悟した反乱軍のリーダーたちが、最後に勅使に思いの丈を述べ、軍人としての最後の光栄を与えてもらいたいと願い出たときも 自殺するならば勝手にさせるがいい。かくのごとき者どもに勅使などもってのほか と怒りを露わにしたといいます。昭和天皇のこの断固とした姿勢により、反乱軍は鎮圧されたといっても過言でないでしょう。 反乱軍の大尉・野中四郎(32歳)と大尉・河野
二・二六事件は失敗に終わりましたが、軍にモノ申せば何をされるか分からないといった「恐怖」が政界・財界・言論界に蔓延、軍の暴走を阻むことがますます難しくなっていきます。この「恐怖」が、日中戦争、アジア太平洋戦争の開戦に影響し、また、その終戦工作を阻む大きな要因になったことでしょう。 報道規制があり、真相が国民にほとんど伝わらなかったこともあったでしょうが、同事件に言及する作家が極めて少なかったのは、やはりその「恐怖」が大きかったからでしょう。国民もおしなべて口を閉ざしました。 十七名の死刑報ぜる今朝の記事は 尾﨑士郎(38歳)は、「雪の日の印象の中には浪漫的な昂奮があった」「情熱が名状しがたき美しさを描くのであった」と、美意識の上で事件を肯定しました。尾﨑は短篇小説『
戦後になりますが、三島由紀夫が小説『憂国』で、新婚者であることを理由に二・二六事件の決起から外された男の末路を耽美的に描きました。三島が自作の中で一押しした作品です。 また、戯曲『十日の菊』に、二・二六事件のさい、女中の機転によって命拾いした架空の大臣を登場させています。 16年の歳月が流れ、政治の表舞台から降りた彼は、「不格好なトゲだらけのサボテン」に囲まれて平穏な日々を送っています。が、あの日に “輝かしい死” を遂げることができなかったことを悔やんでいるようでもあります。やはり、事件の美的側面が強調し、美化しています。三島にはあと『英霊の聲』というのもあり、これらをまとめて三島の「二・二六事件三部作」(Amazon→)。 尾﨑や三島にとっては、その暴力行為が後々までの死屍累々の禍根になるとしても、そんなことはどうでもいいのでしょうか? 個人や所属集団がヒロイックな感情に酔うと、“他者の痛み” などは見えなくなるものでしょうか? 高峰秀子(11歳)は、当時、当地(東京都大田区の大森駅近く)のアパートの6畳一間に母と二人で暮らしており、そこで二・二六事件の報に接します。後年、そのときのことを次のように書いています。 ・・・「決して外出をしないで下さい。窓ぎわには夜具蒲団を積み重ね、その陰にいて下さい……」
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |