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昭和6年9月18日(1931年。
午後10時20分、日本が経営権を持っていた「南満州鉄道(満鉄)」が、奉天(現・中国
関東軍(中国から租借している遼東半島の関東州と南満州鉄道の附属地の守備を目的とした日本の軍隊)の高級参謀・板垣征四郎(46歳)や作戦参謀・
日本の世論は、「満蒙は日本の生命線」(昭和4年、松岡
これらの空気を読んでか(世論の後押しを意識してか)、朝鮮軍司令官の林
この頃の日本は、謀略に明け暮れていました。 3年前の昭和3年6月4日、関東軍が張 作霖(張 学良の父親。満州の大軍閥のリーダー。国民政府軍と対立していた)を爆殺しました(「張 作霖の爆殺事件」)。満州を勢力下に置くため、最初、日本は張 作霖を利用しようとしましたが(張 作霖も日本を利用して北京政府を樹立)、日本の言うことを聞かなくなってきたので亡き者にしたのです。お金に困っていそうなアヘン中毒の中国人3人にお金を渡して現場に連れて行って刺殺して、放置(内1人は死んだふりをして逃走した?)。事件の指揮をとった関東軍参謀・
そして、「満州謀略事件(満州事変)」。 「満州謀略事件(満州事変)」の翌年(昭和7年)1月、満州での日本の侵略行為に対する国際世論の目をかわすために、同じく関東軍が、「(第一次)上海事変」を引き起こしました(英国・米国などは上海に租界を持っており、近くでドンパチ始まればそっちに目が向くだろうと)。やはり偽装工作がなされ、中国人に金を渡して日本人僧侶と信徒を襲撃させ、それを中国のせいにして戦闘を始めました。これも「上海謀略事件」と書いた方が良さそうです。「事変」というと何か小競り合いくらいの印象ですが、日本側戦死者769名、中国側戦死者・行方不明者4,842名、中国側住人の死者・行方不明者2万人超も出しています。日露戦争以来の大戦闘でした。 「上海謀略事件(「(第一次)上海事変」)」の期間中に、ちゃっかり「満州国」が建国されました(昭和7年3月1日宣言)。清朝最後の皇帝・
5月5日(昭和7年)に停戦になると、攻勢なのになぜ南京まで攻め入らないのかとの不満が日本軍におこり、和平主義者の天皇を責める訳にもいかず、周りの和平主義者を標的とし、五・一五事件(「上海謀略事件」停戦の10日後)が起きました。 新聞社などのマスコミは競うように戦争をあおりにあおり、国民を一色に染め上げていきました。戦争ほど新聞社を儲けさせるものはないようです。「もうけ(結果)第一主義」は、どの時代も、戦争賛成に傾く傾向があるようです。産業界もしかり、軍需によって景気がよくなるので、戦争に賛成(または反対しない)傾向が出るようです。当地( 東京都大田区)の工場も、「満州事変」から「日中戦争」に突入する昭和12年までの約5年間で、工場数が約2倍、従業員数が約4倍、生産高が約5倍に増大しています。 日本だけが独立国として認めた満州国でしたが、関東軍の司令官・本庄 繁、高級参謀・板垣征四郎、作戦参謀・石原莞爾らが帰国するや、国民は彼らをヒーローとして迎えました。日本を代表する指揮者・小澤征爾さんは昭和10年生まれですが、板垣征四郎と石原莞爾から一文字ずつ取って命名されています。 そして、この段でも、本庄は、謀略はやっていないと昭和天皇を欺きました。 「上海謀略事件(「(第一次)上海事変」)」、暗殺事件(「結盟団事件」「五・一五事件」)が起き、リットン調査団が満州から日本が撤退することを要求するや日本は国際連盟を脱退(昭和8年3月27日)、そして「二・二六事件」「日中戦争」「太平洋戦争」・・・と深みにはまっていきます。 植民地研究に精力的に取り組んでいた矢内原忠雄は、満州事変勃発時、当地(東京都大田区山王二丁目)に住んでいました(事変勃発時38歳)。昭和7年、自由が丘に転居しますが、満州国建国1ヶ月後の昭和7年4月頃から矢継ぎ早に「新満蒙国論」「満州植民計画の物質的及び精神的要素」「満州経済論」で書き日本の満州政策を批判、当局から睨まれます。
■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |