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反戦論の登場(明治37年8月7日、トルストイの「日露戦争論」、「平民新聞」に掲載される)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トルストイ

明治37年8月7日(1904年。 、「平民新聞」にトルストイの「日露戦争論」が掲載されました。

日露戦争はその年(明治37年)の2月8日、日本海軍の旅順攻撃と日本陸軍の朝鮮(現・韓国)の仁川じんせん への上陸により始まり(日本の対露宣戦布告は2日後の2月10日。だまし討ちは日本の得意技?)、続行中でした。トルストイは「戦争という名の殺戮」に激怒し、同年(明治37年)6月27日、「ロンドンタイムズ」に寄稿、それを平民社の幸徳秋水堺 利彦らが翻訳し緊急掲載したのでした。

この一文で、トルストイは、戦争で「人類の愚かさ、残忍さを露呈」と難じ、日露戦争を「一切の殺生を禁ずる仏教徒」と「愛〔隣人愛〕を大切にするキリスト教徒」との信仰に背く暴挙と糾弾。「愛国心の名のもと、あらゆる無法を許された」と両国を批判しました。

日露戦争はどうして起きたのでしょう?

ポイントはやはり朝鮮(現在の南北朝鮮。明治30年から韓国(大韓帝国)といった)でした。10年前の日清戦争も朝鮮が清国を頼ったことに不服の日本が朝鮮に出兵したことで起きましたが、日露戦争も朝鮮がロシアを頼ったことに不服の日本の攻撃から開始されます。日本は朝鮮を支配下に置くことを企図したのです。ロシアは朝鮮の北部を中立地帯にすることを申し入れてきましたが、朝鮮全体を支配したい日本は聞き入れず、膠着状態の中で、ロシアとの戦争に踏み切りました。2年前の明治35年に締結された日英同盟(日本が欧米列強と締結した初めての対等条約)に気を強くした面もあったことでしょう。日本は莫大な戦費の半分ほどを英国とその他の国の外債でまかないました。

ロシアは清国の遼東りょうとう 半島の先端の旅順りょじゅん Map→を租借しそこに要塞を築いていました(元々は日清戦争に勝利した日本に割譲された場所)。日本は、その旅順港に停泊中のロシアの大規模軍艦7隻を港から出てこれなくする作戦を進めました。同時に朝鮮の 釜山プサン仁川じんせん から遼東半島の付け根に向けて軍を北上させます。旅順港の3回目の攻撃で児玉源太郎大将が比較的防備の少ない二〇三高地(203mの標高を持つ)に攻撃目標を変更してそこを占拠。そこからは旅順港が見渡せて、停泊するロシアの軍艦を壊滅させることができました(明治38年1月)。3月には奉天も占領。ロシア皇帝・ニコライ2世(皇太子時代、日本の大津で受難)はヨーロッパ北方のバルチック艦隊(バルト海Map→の艦隊の意)を日本に差し向けます。アフリカ沖を回って対馬海峡を通過して日本海に侵入してきたバルチック艦隊も日本艦隊が撃破、日露戦争の勝敗が決しました。勝利したものの戦争継続能力の限界に達しつつあった日本は、即座に、和平の仲介を第26代米国大統領・セオドア・ルーズベルトに依頼、米国のポーツマスで日露講和条約(ポーツマス条約)が結ばれ(明治38年9月4日)、1年7ヶ月ほどにわたった日露戦争が終結しました。

日本は日露戦争中から露骨に侵略主義に傾いていきます。日清戦争では「朝鮮(大韓帝国)を清国から独立させよ」、日露戦争でも「朝鮮(大韓帝国)をロシアから独立させよ」というのが日本側の主張でしたが、その日本が、日露戦争中の明治37年8月「日韓協約」を結び、韓国統監を置いて朝鮮(韓国)を支配していきます。さらには、明治43年、日本は朝鮮(韓国)を併合(「韓国併合」)。朝鮮側はこれに激しく反発(当然のこと)、反日独立運動が激化し、初代韓国統監に就任し矢面に立った伊藤博文は、朝鮮独立運動家の 安 重根 あん・じゅうこん によって暗殺されました(明治42年10月26日。重根は翌明治43年に処刑される)。伊藤の暗殺について知ることは、日本が朝鮮に対して行なった“悪事”についても知ることになるからでしょうか、今でも学校であまり取り上げられないようです。重根は韓国では国民的英雄です。

日露戦争開戦の前年(明治36年)、北清事変(義和団事件。列強に蚕食さんしょく されていた清国における外国人排撃運動。幕末の攘夷運動のようなもの)で多国籍軍(英、米、仏、独、ロシア、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本の8カ国軍)が出兵し北京を占領しました。他国の領土を蚕食している方が悪いのに、この件で清国は8カ国に賠償金を払わされ、居留民保護を名目で他国の軍隊を置くことも認めさせられます。ロシアも撤兵せず、反抗する住民を虐殺、満州を支配しました。そんなことからも日本では対ロシアの主戦論が勃興、新聞がそれを煽りまくりました。

幸徳秋水 堺利彦 内村鑑三 内村鑑三

萬朝報よろずちょうほう 」だけは非戦論を貫いていましたが、主戦論者による暴力が強まり(きっと「非国民」「反日」「スパイ」とか言われまくったのでしょうね)、とうとう社主の黒岩 涙香るいこう が日露の戦争を支持する宣言文を紙面に出してしまいます。すると即座に、有力社員だった幸徳秋水堺 利彦内村鑑三が「萬朝報」を後にしました。幸徳にとっても、にとっても、社会主義は、平和主義であり、つまりは非戦主義であり、それは譲れない一線でした。

・・・社会主義は人類平等の主義である。人類同胞の主義である。相愛そうあいあい助くる共同生活の主義である。・・・(堺 利彦「吾輩の根本思想」より)

幸徳は「萬朝報」を後にした後、週刊新聞「平民新聞」を発行(明治36年11月〜)、上に紹介したトルストイの「日露戦争論」も掲載します。内村もキリスト教の立場(「 つるぎ を取る者は皆、剣で滅びる」「汝の敵を愛せよ」)から非戦論を唱えました。幸徳は明治43年逮捕され処刑されましたし、堺もその後5度投獄されています。戦前は非戦論(平和主義)は“悪”だったのです。安倍政権以降、戦前を賛美する政治家が嘘のように跋扈するようになりましたが、このままだときっとまた、そんな世の中になることでしょう。

文学者からの勇気ある非戦の表明もありました。

・・・親はやいばをにぎらせて 人を殺せとををしへしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや・・・(中略)・・・旅順の城はほろぶとも ほろびずとても何事か 君知るべきやあきびと商人の 家のおきてに無かりけり 君死にたまふことなかれ すめらみことは戦ひに おほみづからは出でませね かたみに人の血を流し 獣の道に死ねよとは 死ぬるを人のほまれとは 大みこゝろの深ければ もとよりいかで思されむ あゝをとうとよ戦ひに 君死にたまふことなかれ・・・(与謝野晶子「君死にたまふことなか れ」より)

半藤一利「日露戦争史1 (平凡社ライブラリー)』 「「韓国併合」100年を問う』(岩波書店)
半藤一利「日露戦争史1 (平凡社ライブラリー)』 「「韓国併合」100年を問う』(岩波書店)
荒畑寒村『平民社時代 (中公文庫) 』 『原典でよむ 20世紀の平和思想 (岩波現代全書)』。編:小菅信子
荒畑寒村『平民社時代 (中公文庫) 』 『原典でよむ 20世紀の平和思想 (岩波現代全書)』。編:小菅信子

■ 参考文献:
●『トルストイの戦争論(現代文)』(国書刊行会 平成23年発行)はじめに、P.15、P.19 ●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤 まこと 五味文彦 ごみ・ふみひこ 高埜 たかの 利彦、 鳥海 とりうみ 靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷参照)P.372-373、P.376-383 ●『明治大正史(下)』(中村隆英たかふさ  東京大学出版会 平成27年初版発行 同年発行4刷参照)P.51-57、P.97-137 ●「ポーツマス条約」(藤村道生)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「安 重根」※「百科事典マイペディア」(平凡社)に収録コトバンク→ ●『パンとペン』(社会主義者・堺 利彦と「売文社」の闘い)(黒岩比佐子 講談社 平成22年発行)P.104-109

※当ページの最終修正年月日
2023.8.7

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