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力まない反骨(広津和郎について)*

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当地(東京都大田区)に住んだ頃の広津和郎と松沢はま。大正15年頃か ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『馬込文士村ガイドブック(改定版)』(東京都大田区立郷土博物館)*

 

大正14年8月7日(1925年。 「東京日日新聞」が、広津和郎(33歳)について、まるで週刊誌のように報じています。*

・・・同君芸術社の失敗から債鬼にいじめられるので暫く行方をくらまそうとしたのだそうだが、こんな場合にも情婦携帯という小説家らしい色どりがある。 いずれ一トひと小説書けるだろう・・・*

この「携帯した女性」というのは、東京新橋の 烏森からすもり 神社map→近くの待合「松竹」の女主人・白石 都里つさと という人のようです。しけこんだ場所は本郷の「菊富士ホテル」(東京都文京区本郷五丁目5-17 map→)。 広津が仕事場にしたこのホテルには、正宗白鳥大杉 栄伊藤野枝竹久夢二谷崎潤一郎高田 保、石川 淳、尾﨑士郎宇野千代、直木三十五、三木 清、福本和夫宮本百合子間宮茂輔坂口安吾なども出入りしています。*

立ち上げた「芸術社」が失敗した頃で、広津は少々ふさぎ込んでいたようですが、そんな彼に都里が想いを寄せたようです。彼女は愛人の松山省三しょうぞう (40歳。画家であり、銀座「カフェー・プランタン」の経営者)と別れ広津と一緒になりたかったようです。松山は広津の友人を通して、広津に彼女と別れてくれと懇願したそうですが、彼女の気持ちも分かっている広津にはできなかった。上の新聞記事には、債鬼(借金取り)から逃れるためとありますが、松山から逃れる目的もあったかもしれません。*

広津が当地(東京都大田区南馬込二丁目)に現れるのは、上の新聞記事が掲載された翌年(大正15年。35歳)で、上の写真はその頃のものです。左に写っている女性が都里、かというと違うのです。松澤はまという女性です。37年後の昭和37年はまは亡くなりますが、70歳になっていた広津の悲しみようは尋常でなく、彼女の思い出話になると大泣きしたそうです。広津にとってのそういう女性です。はまのことは、「はま夫人」と書かれることがありますが、広津には鎌倉に「元子という妻」がおり、その元子も実は内縁で、別に「戸籍上の妻」がいて賢樹、桃子(後の作家・広津桃子)という子どもいたとか・・・。 広津には情深いといった言葉では表しきれない強烈な魅力があって、どうにもこうにも女性に好かれてしまうようです。羨ましい限り(いや、案外たいへんか?)。*

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広津は男性からも強く信頼されていました。*

葛西善蔵の今際の際いまわのきわ でも情や義理に流されることなく、人を見る目が厳しい志賀直哉や山本周五郎からも高く評価されました。あらゆる人に理解を示すのに、「おかしい」と思ったことでは決して譲らない。*

また、自分の不十分な点に気づけば、それを潔く認め、可能な限り改めようとしました。広津の小説『さまよへる琉球人』は当初、沖縄の産業団体「沖縄青年同盟」から批判され、広津自ら、以後、作品集に入れないことを約し実行しますが、同作は広津の死後、なんと沖縄県側からの要請で復刊されます。*

戦前の社会主義運動の弾圧下にあっても、累が及ばないようにとそっぽを向くのではなく、影で相当サポートしたようです。“同伴者作家”と呼ばれるゆえんです。間宮茂輔が下獄したおりは、医師や弁護士を、出獄時は衰弱した間宮のためにハイヤーを差し向けたりしています。広津の顔の広さを表していますが、そのとき差し向けた弁護士は、労農党の書記長までやった 三輪寿壮みわ・じゅそう。*

広津をもっとも有名にしたのが、戦後最大の冤罪事件(謀略事件)とも言われる「松川事件」でしょう。広津はその被告の救済運動の中心に立ち、12年間の闘争の末、死刑判決5名を含む被告20名を全員無罪に導きました。*

広津は、世間がもてはやす小説であっても「おかしい」と思えば、食ってかかりました。老いてもそういった純粋さを失わなかった人です。*

後年親しくした志賀直哉広津が資金に困っていると知ると理由も聞かずに通帳と印鑑をポンと渡したといいます。盟友・間宮茂輔広津のことを次のように書いています。*

・・・広津さんは人の長になることが嫌いであり、はなやいだこと、けばけばしいこと、威ばること、気どること、すべてこのようなたぐいのことを嫌悪してその気持を七十六年間の生涯につらぬいた。広津さんのように、おでん屋のおやじでも、質屋の番頭でも、作家でも、編集者でも、女でも、子供でも、さらには大臣でも、大将とでも、つねに対等であった人の例をわたしは他に知らない。広津さんこそ純粋の日本人であり、市民であり、庶民であった。・・・(間宮茂輔『広津和郎』より)*

昭和7年頃(41歳頃)の広津和郎。2年前(昭和4年)、当地(東京都大田区)を去り、この頃は東京都世田谷に住んでいた ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『昭和文学アルバム(1)』(新潮社)* 昭和10年頃(44歳頃)。右は川端康成。クリックすると、宇野浩二、林 房雄、武田麟太郎、小林秀雄、深田久弥、豊島与志雄も登場 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『昭和文学アルバム(1)』(新潮社)**
昭和7年頃(41歳頃)の広津和郎。2年前(昭和4年)、当地(東京都大田区)を去り、この頃は東京都世田谷に住んでいた ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『昭和文学アルバム(1)』(新潮社)* 昭和10年頃(44歳頃)。右は川端康成。クリックすると、宇野浩二、林 房雄、武田麟太郎、小林秀雄、深田久弥、豊島与志雄も登場 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『昭和文学アルバム(1)』(新潮社)*

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広津和郎 『年月のあしおと〈上〉 (講談社文芸文庫)』。自伝的文壇回想録 広津桃子 『父広津和郎(中公文庫)』
広津和郎 『年月のあしおと〈上〉 (講談社文芸文庫)』。自伝的文壇回想録 広津桃子 『父広津和郎(中公文庫)』
松原新一『怠惰の逆説 〜広津和郎の人生と文学〜』(講談社)* 広津和郎『松川裁判(新版)』(木鶏社)。裁判が使用したのと同一資料をもとに被告無罪を論証*
松原新一『怠惰の逆説 〜広津和郎の人生と文学〜』(講談社)* 広津和郎『松川裁判(新版)』(木鶏社)。裁判が使用したのと同一資料をもとに被告無罪を論証*
間宮茂輔『広津和郎 〜この人との五十年〜』*(理論社)* 近藤富枝『本郷菊富士ホテル (中公文庫)』
間宮茂輔『広津和郎この人との五十年〜』*(理論社)* 近藤富枝『本郷菊富士ホテル (中公文庫)』

■ 馬込文学マラソン:
広津和郎の 『昭和初年のインテリ作家』 を読む→
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→*
宇野千代の『色ざんげ』を読む→*
間宮茂輔の『あらがね』を読む→*
山本周五郎の『樅ノ木は残った』を読む→
志賀直哉の『暗夜行路』を読む→

■ 参考文献:
●『本郷菊富士ホテル(中公文庫)』(近藤富枝 昭和58年初版発行 平成10年4刷参照)P.157-163  ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年発行)P.58-59 ●『広津和郎 〜この人との五十年〜』(間宮茂輔 理論社 昭和44年発行)P.1-3* ●『六頭目の馬 〜間宮茂輔の生涯〜』(間宮 武 武蔵野書房 平成6年発行)P.190-191* ●『昭和文学アルバム(1)(新潮日本文学アルバム 別巻)』(昭和61年初版発行 平成7年発行7刷参照)P.44-45*

■ 参考サイト:
Amazon/『頭でわからないなら尻で理解しろ! 』(松澤一直)→ ●ウィキペディア/・三輪寿壮(平成30年10月29日更新版)→* ・松山省三(平成30年10月7日更新版)→*

■ 参考談話:
●平成23年1月22日、渋谷アップリンクでの映画『松川事件』の上映後に行われた松澤一直さんのトークショーでの話。松澤さんは広津の義理の甥で、ロシア文学者。広津と同居していたことがある。はまの話で大泣きしたことや、志賀広津に通帳を託した話など*

※当ページの最終修正年月日
2019.8.15

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