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司法権の独立(明治24年5月27日、「大津事件」の被告に無期懲役が宣告される)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

児島惟謙

明治24年5月27日(1891年。 大審院だいしんいん院長(現・最高裁判所長官)の 児島惟謙こじま・いけん(54歳)の意を受けた堤 正己つつみ・まさみ裁判長が、「大津事件」の被告・津田三蔵(36歳 Photo→)に無期徒刑(現在の無期懲役)を宣告しました。

「大津事件」とは、16日前(5月11日)、来日中のロシア帝国皇太子ニコライ(22歳。後のロシア皇帝・ニコライ2世 Photo→)を、滋賀県大津(「大津事件跡碑」(滋賀県大津市京町きょうまち二丁目2-11 Map→)で警備にあたっていた巡査の津田が斬りつけ、負傷を負わせた事件です。ニコライ皇太子は、ウラジオストックで行われるシベリア鉄道の起工式に向かう途上、日本に立ち寄ったのでした。津田は、シベリア鉄道開通がロシアの日本侵略の足がかりになると考え、犯行に及んだのでしょうか。

強大な軍事力を持つロシアに対して起こしたこの不祥事に、日本中が震え上がりました。ロシアからの報復を恐れ、学校は休みになり、寺社教会では皇太子平癒の祈祷がおこなわれたそうです。ニコライ皇太子への見舞いの電報は1万通を越え、犯人の姓名(津田と三蔵)の使用禁止条例を出す市町村までありました。死をもって詫びた女性(畠山勇子。世界中から同情の声が集まった Photo→)もいました。事件の際、津田を取り押さえた人力車夫は一躍ヒーローになりました。

事件後すぐ、接待係だった 有栖川宮 ありすがわのみや・ 威仁 たけひと 親王(29歳)が、重大な外交問題と判断し、随行員に顛末を書かせて明治天皇(38歳)に打電。ロシア側に誠意を見せるために天皇が見舞いに行くよう要請したようです。

ロシア通で知られた伊藤博文(49歳)も報告を受け、逗留先の箱根から急遽上京、半日後(5月12日の深夜(午前1時))に明治天皇に謁見、天皇からロシアとの関係が破綻しないよう手を尽くすよう命じられます。5月12日早朝には、天皇はニコライ皇太子の療養先の「 常盤 ときわ ホテル」(現・「ホテルオークラ京都」(京都市中京なかぎょう一之船入町いちのふないりちょう537-4 Map→))へ向けて汽車中の人となり、その夜に到着、翌5月13日ニコライ皇太子を見舞いました(12日夜の見舞いはニコライ皇太子の侍医の要請で見送られた)。伊藤も京都へ向かっています。

5月16日、ロシアのアクサンドル3世は、今回のことで一切賠償を要求しないとしました。

こういった主体的かつ迅速な皇室外交が功を奏し、ロシア側の感情が大いに鎮められたと推測されています(ニコライ皇太子離日の前日(5月19日)にも、明治天皇は周囲の反対を押し切って、ロシア軍艦中のニコライ皇太子を再び見舞った)。

とはいえ、事件を口実にロシアが日本に攻め入る可能性も考えられ、日本政府は、ロシアの感情を鎮めるため、犯人の津田を死刑にする方向で動き出しました。ところが、児島は、「(旧)刑法116条」を示して、それを拒絶。刑法116条には、天皇や皇族に対して危害を与えた場合「大逆罪」が適用されて死刑に処される旨書かれていましたが、海外の賓客に対しては書かれていませんでした。謀殺未遂は無期徒刑にするのが限界で、津田を死刑にすることは、法律を曲げることになると突っぱねたのです。国家が没落したら法律も何もないではないかと松方正義首相(56歳)は言葉を荒げましたが、児島は考えを変えませんでした。

法を曲げて運用することは、つまりは、法で統治できなくなることであり、法治主義を捨てることになると児島は考えました。大日本帝国憲法が前年(明治23年)11月29日に施行しこう されたばかりで(「大津事件」はその半年足らず後に起きた)、立憲主義に基づく近代国家として日本は歩み始めたばかりです。最初からその原則を崩すような腰抜けであってはならないとの気概が児島にはあったのでしょう(児島は大審院院長になったばかりだった。事件の5日前(明治24年5月6日)に就任)。

その後も政府は他の裁判官を懐柔しようとしましたが、児島も他の裁判官に「司法権の独立」を説いてまわり、熟慮を促し、死刑ではなく無期徒刑の判決に導きました。

判決の1週間後(6月3日)、ロシアの一般民衆も判決について「充分に納得」するとの情報がもたらされました。

児島の判断は、政治的干渉から司法権の独立を守ったとされ、三権分立という考え方が日本に普及するきっかけになります。児島は「護法の神様」と呼ばれるようになりました。悪い事態(多額の賠償金、領地の割譲、戦争)にならなかったことで、児島の判断は正しかったとされたのです。国際社会は日本を法治国家と認めるようになりました。3年後の明治27年、日本は英国との間で「通商航海条約」を締結、不平等条約が解消されていきます。

司法権の独立

その後、日本は、明治26年公布の「出版法」、明治42年公布の「新聞紙法」大正14年公布の「治安維持法」などの、天下の悪法ができたことなどによって、血なまぐさい国家への道を歩むこととなりますが、児島ら司法界の卓見によって、かろうじて、「司法権の独立」と「立憲主義」(憲法により権力者の権力の濫用を抑制する考え方)は守り得たといえるのでしょうか。

第二次世界大戦・アジア太平洋戦争に破れた日本は、戦前・戦中の自国の蛮行に対する反省の上に立って、「国民主権(民主主義)」「基本的人権の尊重」「平和主義」を基調とする日本国憲法を獲得。戦後数年すると、冷戦構造(米国とソ連の対立)が明瞭になるので、そうなる前のわずかな期間に(米国が平和主義に立脚したわずかな期間に)、日本国憲法は奇跡的に成立しました。そこで謳われた崇高な理念は、世界に誇り得るものでしょう。

この新しい憲法に基づいて、日本は歩み始めました。

日本国憲法では、第6章「司法」(第76〜82条までの7つ)が司法についてです。その最初の条文(76条)で、「司法権の独立」が謳われています。

すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。(日本国憲法第76条第3項)

なのに、現在も、冤罪(無実の罪を着せられること)の疑いのある判決が下されるケースが後を絶たないのは、どうしてでしょう? 裁判官は、「憲法及び法律にのみ拘束され」、「良心に従」って、判決が下しているはずなのに・・・

なお、憲法76条の第2項目で「特別裁判所」(明治憲法下の軍法会議や皇室裁判所など)の設置を禁じています。が、自民党は、憲法改憲草案の9条の第2項に「国防軍に審判所を置く」の一節を入れて、“軍法会議”を復活させようとしています。軍法会議は、戦場に行くことを拒む兵士を裁く場ともなり、なおかつ、非公開で行われる可能性もあります。そういった改正(改悪)の中身が有権者に周知されていない中で行われる「あなたは憲法改正に賛成ですか?」といったアンケートの類は、無意味であり、 だま しですらあります。

吉村 昭 『ニコライ遭難 (新潮文庫)』 楠 精一郎 『児島惟謙 〜大津事件と明治ナショナリズム〜 (中公新書)』
吉村 昭 『ニコライ遭難 (新潮文庫)』 楠 精一郎 『児島惟謙 〜大津事件と明治ナショナリズム〜 (中公新書)』
岡口基一 『最高裁に告ぐ』(岩波書店)。「白ブリーフ判事」が語る司法の現実 瀬木比呂志『絶望の裁判所 〜最高裁中枢の暗部を知る〜(講談社現代新書)』
岡口基一 『最高裁に告ぐ』(岩波書店)。「白ブリーフ判事」が語る司法の現実 瀬木比呂志『絶望の裁判所 〜最高裁中枢の暗部を知る〜(講談社現代新書)』

■ 参考文献:
●『大津事件(岩波文庫)』(尾佐竹おさたけ たけき  解説:三谷太一郎 平成3年発行)P.315-324 ●「裁判官 良心のみ従う(いま読む日本国憲法 46)」※「東京新聞(朝刊)」(平成29年5月18日号)掲載

■ 参考映像:
「明治日本を襲った試練 〜伊藤博文とロシア皇太子襲撃事件〜(英雄たちの選択)」(NHK、初回放送:令和3年12月22日、司会:磯田道史みちふみ・杉浦友紀ゆき、コメンテーター:伊藤之雄ゆきお真山 仁まやま・じん 、山口真由、杉原悠三、麻田雅文)

※当ページの最終修正年月日
2024.5.27

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