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明治24年5月27日(1891年。
「大津事件」とは、判決16日前の5月11日、来日中のロシア帝国皇太子ニコライ(22歳。後のロシア皇帝・ニコライ2世)を、滋賀県大津(「大津事件跡碑」(滋賀県大津市京町二丁目2-11 map→)で警備にあたっていた巡査の津田が斬りつけ、負傷を負わせた事件です。 強大な軍事力を持つロシアに対して起こした不祥事に、日本中が震え上がりました。ロシアからの報復を恐れ、学校は休みになり、寺社教会では皇太子平癒の祈祷がおこなわれたといいます。ニコライ皇太子への見舞いの電報は1万通を越え、犯人の姓名(津田と三蔵)を使うのを禁じる条例を出した市町村もあったくらいです。死をもって詫びた女性もいました。
この「大津事件」には、2つの大きな歴史的教訓が含まれています。 1つは、司法権はいかなる場合も独立性を保つべきか否かで、もう1つは、国家が存亡の危機に立たされたとき国のリーダーはどのように行動すべきかです。 強国ロシアの皇太子に傷を負わせてしまったということは、多額の賠償金を要求されたり、領土の割譲を求められたり、最悪、軍事的に攻撃される可能性も考えられました。政府首脳は直ちに会合を持って、犯人の津田を死刑にする方向を決めます(青木周蔵外相(47歳)と駐日ロシア公使のドミトリー・シェーヴィッチ(51歳)との間で、ニコライ皇太子に何かがあったら「大逆罪」が適用されるとの密約が交わされたと回顧した要人がいるが、公的な記録はない)。犯人を極刑に処して、ロシアの感情を鎮めようとの考えです。 松方正義首相(56歳)は直ちに大審院院長の児島に面会し、津田を死刑にするよう迫ります。ところが、児島は、(旧)刑法116条を示して、それを拒絶。刑法116条には、天皇や皇族に対して危害を与えた場合「大逆罪」が適用されて死刑に処される旨書かれていますが、海外の賓客に対しては書かれていませんでした。謀殺未遂は無期徒刑にするのが限界で、津田を死刑にすることは、法律を曲げることになると突っぱねたのです。国家が没落したら法律も何もないではないかと松方は言葉を荒げましたが、児島は考えを変えませんでした。法を曲げて運用することは、つまりは、法では統治できなくなることで、法治主義を捨てることになると児島は考えました。大日本帝国憲法が前年(明治23年)11月29日(「大津事件」はその半年足らずで起きた)に 「大逆罪」適用ということで審議の場が大津地方裁判所から大審院に移されると(審議の場は例外的に大津に置かれた)、政府はその裁判官を司法省に呼び出して津田を死刑にするよう説得しました。司法に政治が介入したわけです。そして、いったんは、裁判官たちは政府の考えに同意します(5月19日)。 すると、児島は、大津に飛んで、司法権の独立を裁判官たちに説いて熟慮を促します。これをもって児島が裁判官の独立性を侵したとする人がいますが、それを言うならその前の政府の介入でしょう。児島の介入を知った政府は、内務大臣の西郷
もう一つ「大津事件」で注目したいのが、国家存亡の危機のおりに、国のリーダーたちがいかなる行動をとったかという点。 5月11日の昼過ぎに事件が起こると、公式の接待係だった また、ロシア通で知られた伊藤博文(49歳)は報告を受けると、逗留先の箱根から急遽上京、5月12日の深夜(午前1時)に明治天皇に謁見、天皇からロシアとの関係が破綻しないよう手を尽くすよう命じられます。5月12日早朝には、天皇はニコライ皇太子の療養先の「
威仁親王、伊藤博文、明治天皇がとった主体的かつ迅速な行動が皇室外交を成功に導き、ニコライ皇太子とロシア側の感情を大いに鎮めたと推測されています(離日の前日(5月19日)ロシア軍艦中のニコライ皇太子を、明治天皇は周囲の反対を押し切って再び見舞った)。 5月16日、ロシアのアクサンドル3世は、今回のことで一切賠償を要求しないとしました。また、6月3日、5月27日の判決についても、一般人民に到るまで「充分に満足」とします。 児島の判断は、政治的干渉から司法権の独立を守ったとされ、三権分立という考え方が日本に普及するきっかけになります。児島は「護法の神様」と呼ばれるようになりました。悪い事態(多額の賠償金、領地の割譲、戦争)にならなかったことで、児島の判断は正しかったとされたのです。また、国際社会は日本を法治国家と認め、日本の評価があがり、海外列強との不平等条約の改正に弾みがつきます。3年後の明治27年、日本は英国との間で「通商航海条約」を締結、不平等条約改正が前進しました。 当時の法曹界には、薩長閥以外の人材が集ったことが、政府からの干渉を跳ね返せた一因になったとの考察があります。薩長閥が行政と軍部を独占したため、他藩出身者は競って法曹界に集ったとのこと。児島も愛媛県宇和島 (map→)出身でした。
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