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プロコフィエフがやって来る(大正7年4月28日、大田黒元雄の『続 バッハよりシェーンベルヒ』が発行される)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当地(東京都大田区山王一丁目)の大田黒邸にて。 中央がプロコフィエフ、右が大田黒元雄、左が大田黒の妻のちづえ。大田黒とちづえは、この年に結婚。プロコフィエフ離日1日前(大正7年8月1日)のショット ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『プロコフィエフ(自伝・随想集)』(音楽之友社)原典:杉並区立郷土博物館所蔵資料

大田黒元雄

大正7年4月28日(1918年。 大田黒元雄(25歳)が『続 バッハよりシェーンベルヒ』NDL→を発行しました。

大田黒は19歳で英国に渡りロンドン大学で経済学を学び、帰国後(第一次世界大戦のため留学継続を断念)、洛陽堂や山野楽器から著作を発行しましたが、大正5年(22歳)、野村光一や堀内敬三らと雑誌「音楽と文学」を発行するにあたり、発行所「音楽と文学社」を当地の自宅(東京都大田区山王一丁目11 map→)に定め、そこから本を出すようになります。『近代音楽精髄』『印象と感想』『歌劇大観』『洋楽夜話』『露西亜ロシア 舞踏』とかなりのペースで本を書き(英国に経済学を学びに行ったはずですが、連日の音楽会通いで、すっかり音楽に精通したようだ)、『続 バッハよりシェーンベルヒ』も同発行所から出されました。

東京都品川区と大田区の境界をなす道。昔は小川で、ちょっとした渓谷を作り、周辺は「大井村 鹿島谷 ( かしまだに ) 」と呼ばれた。大田黒邸は写真の左手あたりにあった。家の近くの小川には「山王橋」がかかっていた 当地(東京都大田区)の大田黒邸でプロコフィエフも触れたピアノが、「大田黒公園」(東京都杉並区荻窪三丁目33-12 map→ site→)の記念館に保存されている。大田黒が実際に弾いた曲をこのピアノで弾いたCDがかかっていた
東京都品川区と大田区の境界をなす道。昔は小川で、ちょっとした渓谷を作り、周辺は「大井村 鹿島谷 かしまだに 」と呼ばれた。大田黒邸は写真の左手あたりにあった。家の近くの小川には「山王橋」がかかっていた 当地(東京都大田区)の大田黒邸でプロコフィエフも触れたピアノが、「大田黒公園」(東京都杉並区荻窪三丁目33-12 map→ site→)の記念館に保存されている。大田黒が実際に弾いた曲をこのピアノで弾いたCDがかかっていた

『続 バッハよりシェーンベルヒ』は近年世界で話題の作曲家を20名紹介したもので、マーラー(没後6年)、グラナドス(没後2年)、ラヴェル(43歳)と紹介したあと、19番目にプロコフィエフ(27歳)を取り上げています。まとまった形でプロコフィエフが日本で紹介されたのはこれが初めてかもしれません。

・・・プロコフィエフの楽風を一言にしていえば「バックの如くに奔放軽快」である。けれどまたその一面特に最近の作品にはストラヴィンスキイに見られるような本質的な寧ろ野蛮な 直截 ちょくせつ なところが明瞭に認め得られる。したがって彼もまた多くの批評家から種々の 褒貶 ほうへん を浴せられているのはいうをまたない。
 彼の独創的な作品はペトログラード〔サンクトペテルブルク〕の楽界に多くの問題を惹起した。そしてある人々は彼を末恐ろしい少年と呼び、またある批評家はアンダーセン〔アンデルセン〕のお 伽噺 とぎばなし を例に引き、美しい白鳥のような未来のロシア作曲家の間にあって彼は恐らくかの醜い 小鴨 こがも となるであろうとさへ言った。
 けれども彼の嘆美者は彼の作品が新しい深刻な霊感をもって、リムスキーコルサコフの絵画的の美しさとリアドフの 繊細 デリカシイ とを あわ せ持った作品を創造する天才であると賞揚してやまない。とにかく彼が果して第二のストラヴィンスキイたるか否かは極めて興味ある楽界の問題である。(大田黒元雄『続バッハよりシェーンベルヒ』より)

プロコフィエフ

そのプロコフィエフが2ヶ月ほど後に大田黒の目の前に現れます。

プロコフィエフはロシア革命で世情が騒がしくなったロシアを避け創作に専念すべく米国を目指してサンクトペテルブルクmap→を5月2日に発ちました。16日間シベリア鉄道に揺られてウラジオストックに着くのが5月22日。ようやくビザが手に入って船で敦賀港から日本入りするのが5月31日です。目的地は米国でしたが、適当な船便がなく、2ヶ月間、日本に滞在することになりました。

そして、西洋音楽に詳しい大田黒は、7月2日にプロコフィエフと対談することになりました。また、7月22日より、プロコフィエフが当地の「 望翠楼 ぼうすいろう ホテル」(マンション「クレスト山王ヒルズ」(東京都大田区山王三丁目34-13 map→)が建っているあたりにあった)に滞在するようになると、以後、8月2日に離日するまでの12日間、両者は親しく行き来します。

「望翠楼ホテル」があったあたり。右手奥の白いマンションが建っているあたりにあった。堀口大学や佐藤春夫も利用 昭和13年発行の火災保険地図(火保図)の「望翠楼ホテル」。左の写真の右手前の塀は鹿島氏宅のもの
望翠楼ホテル」があったあたり。右手奥の白いマンションが建っているあたりにあった。堀口大学佐藤春夫も利用 昭和13年発行の火災保険地図(火保図)の「望翠楼ホテル」。左の写真の右手前の塀は鹿島氏宅のもの

プロコフィエフは当地に来て次の日には、大田黒邸に足を運んでいます。宿賃を節約するために横浜から当地に移って来たと言われていますが、大田黒が近くにいるという理由もあったのではないでしょうか。大田黒の日記には、

七月二十三日 火曜

 十時過ぎに突然プロコフィエフが来る。彼は車で来た。そして取次ぎに出た女中に「オタグロ、オタグロ」とったそうだ。
 彼は数日前まで軽井沢にいたのださうだ。そして昨夜、グランド・ホテルからこの大森の望翠楼ホテルに転じて来たのだそうだ。
 彼は顔一面の汗をも意とせずに 、直ぐ洋琴ようきん 〔ピアノのこと〕の前に腰を下して、いろいろな曲を弾いた。そしてオリヴァー・ディットソン版の「近代露西亜洋琴曲集」の中にあるグラズーノフの二調のワルツを見つけそのト調に転じている部分を弾いて馬鹿みたいな曲だと冷笑した。
 彼は昼頃まで弾いたり、話したりして過す。ラヴェルの「マ・メル・ロア」の「美人と獣との登場」を特に繰り返して弾いた。そしてこれは管弦楽で聴くと一層効果があると云って、コントラ・ファゴットやセロの口真似をしながら弾く。
 彼はなおいろいろの曲を弾こうとしたが、ホテルで友人と午餐ごさん 〔昼食のこと〕を共にする約束があったため明日の来訪を約して帰っていく。 (大田黒元雄『第二音楽日記抄』より)

とあります。プロコフィエフが夢中になって弾いたラヴェルの「マ・メール・ロワ」の「美女と野獣の対話 」は次のような曲。長尾洋史さんと 藤原亜美さんの連弾です(YouTube→)。

約束どおり、プロコフィエフは次の日もやって来て、また来るなりピアノを弾き始めます(笑)。やはり、彼くらいの人になるとこんな感じ(クレイジー!)なんでしょうね。

『プロコフィエフ 〜自伝/随想集〜』(音楽之友社)。訳:田代 薫 『プロコフィエフ (作曲家別名曲解説ライブラリー)』。編:音楽之友社
プロコフィエフ 〜自伝/随想集〜』(音楽之友社)。訳:田代 薫 プロコフィエフ (作曲家別名曲解説ライブラリー)』。編:音楽之友社
プロコフィエフ「ピアノ協奏曲第2番&第3番」。ピアノ:キーシン。指揮:アシュケナージ。日本に来る5年前(大正2年)、プロコフィエフ(22歳)は「ピアノ協奏曲第2番」を作曲し自ら演奏、その革新性に、非難ごうごうと拍手喝采相半ばの大騒動となった。「ピアノ協奏曲第3番」は、日本滞在時に聴いた「越後獅子」の影響を受けているともいわれる プロコフィエフ「交響曲第1番(古典)& 第5番」。指揮:カラヤン、ベルリン・フィル。プロコフィエフは20代半ばですでに、新古典主義の先駆とされる「交響曲第1番(古典)」を作曲している。来日の直前、大正7年4月21日自らの指揮で初演(26歳)。交響曲5番は、昭和16年、ドイツが独ソ不可侵条約を一方的に破棄して攻め入ったのを機に作曲された
プロコフィエフ「ピアノ協奏曲第2番&第3番」。ピアノ:キーシン。指揮:アシュケナージ。日本に来る5年前(大正2年)、プロコフィエフ(22歳)は「ピアノ協奏曲第2番」を作曲し自ら演奏、その革新性に、非難ごうごうと拍手喝采相半ばの大騒動となった。「ピアノ協奏曲第3番」は、日本滞在時に聴いた「越後獅子」の影響を受けているともいわれる プロコフィエフ「交響曲第1番(古典)& 第5番」。指揮:カラヤン、ベルリン・フィル。プロコフィエフは20代半ばですでに、新古典主義の先駆とされる「交響曲第1番(古典)」を作曲している。来日の直前、大正7年4月21日自らの指揮で初演(26歳)。交響曲5番は、昭和16年、ドイツが独ソ不可侵条約を一方的に破棄して攻め入ったのを機に作曲された

■ 馬込文学マラソン:
プロコフィエフの『彷徨える塔』を読む→

■ 参考文献:
●『大田黒元雄の足跡 ~西洋音楽への水先案内人~』(東京都杉並区立郷土博物館 平成21年発行)P.4-5 ●『プロコフィエフ短篇集(訳:サブリナ・エレオノーラ、豊田菜穂子 群像社 平成21年発行)P.176、P.194-209、P.203-204 ●『続 バッハよりシェーンベルヒ』(大田黒元雄 音楽と文学社 大正7年発行)NDL→P.237-241 ●『堀口大学 〜詩は一生の長い道』(長谷川郁夫 河出書房新社 平成21年発行)P.344 ●『第二音楽日記抄』(大田黒元雄 音楽と文学社 大正9年発行)NDL→P.88-104

※当ページの最終修正年月日
2022.4.28

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