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政党の是非(大正13年1月7日、清浦奎吾、組閣する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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清浦奎吾

関東大震災から3ヶ月ほど経った大正13年1月7日(1924年。 当地(東京都大田区)にゆかりある 清浦奎吾きようら・けいご (73歳)が組閣しました。

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原 敬
高橋是清
原 敬
高橋是清
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加藤友三郎
山本権平
加藤友三郎
山本権兵衛

清浦が総理大臣になるまでの2年強の政界をたどると、大正10年11月4日、「(政治家として)間違いなく五本の指に入る」(中村隆英)とされる原 敬(65歳)が内閣総理大臣(第19代)在職中に東京の大塚駅で暗殺されると、その立憲政友会内閣を受け継いで高橋是清(67歳)が内閣総理大臣(第20代)になります(大正10年11月13日)。

高橋は原内閣を引き継ぎましたが、内閣改造論が起こり非改造論と対立、内閣内も分裂して内閣総辞職となり、立憲政友会内も分裂。自らの推薦で組閣された高橋内閣が不首尾に終わったため西園寺(72歳)は遠慮し、もう一人の元老・ 松方正義まつかた・まさよし (87歳)が主導して加藤友三郎(61歳)が内閣総理大臣(第21代)になります(大正11年6月12日)。第2党の憲政会の総裁・加藤高明が第二候補だったので、憲政会には内閣を渡すまじと、立憲政友会も加藤を全面支援。原内閣、高橋内閣と立憲政友会の「政党内閣」が続きましたが、政党色の薄い「中間内閣」が誕生しました。加藤友三郎は高橋内閣の海軍大臣で軍人でしたが、円満な性格で、ワシントン会議で首席全権を務めるなど手腕も高く買われていました。

ところが、加藤はガンを患っており、1年2ヶ月ほどで亡くなってしまいます(大正12年8月24日。関東大震災の1週間ほど前)。次なる内閣総理大臣はやはり海軍大将だった山本権兵衛(第22代。第2次山本内閣。70歳)。やはり「中間内閣」です。組閣中に関東大震災があり「地震内閣」と呼ばれました。地震被害からの復興に努めましたが、 政党との繋がりが薄いことから政党からの突き上げが厳しかったようです。「虎ノ門事件」(大正12年12月27日、左翼思想をもつ難波大助による、摂政宮 裕仁 ひろひと 親王(22歳。のちの昭和天皇)の暗殺未遂事件。震災後の「大杉 栄など3名殺害事件」などが背景にある)があり、総理大臣以下全大臣が辞表を出して4ヶ月ほどで倒れました。

そしていよいよ清浦圭吾(73歳)です。山本内閣が倒れるのは大正13年1月7日ですが、その前から、西園寺(74歳)から清浦に打診がありました。西園寺は松方とともに天皇に助言することを任務とする元老の職にありましたが、この件では西園寺が主導したようです。大隈重信(大正11年1月10日没)と山縣有朋(大正11年2月1日没)も元老でしたが、高橋内閣の時に立て続けに亡くなり、松方も半年後には逝去(大正13年7月2日没)。大政治家が去ることで一つの時代が終わろうとしていたのかもしれません。

そして清浦に組閣せよとの大命がありますが、清浦は、老齢と枢密院議長(枢密院とは昭和22年まであった天皇の諮問機関。「憲法の番人」と呼ばれた)という重職にあることを理由に辞退、その後、摂政宮 裕仁 ひろひと 親王(22歳。のちの昭和天皇)から重ねて依頼があって、断りきれずに内閣総理大臣(第23代)となりました(大正13年1月7日)。熊本県出身の初の内閣総理大臣だそうです。

清浦内閣は、政党色の薄い「中間内閣」をさらに推し進め、政党を排除、閣僚の多くを貴族院議員から選んで「超然内閣」と呼ばれます。政党について清浦が次のように書いています。

・・・元来政治は国民のための政治であり、国民は皆参政権を有しているには相違ないが、それだからといって、政党に入るべき理由はない。一般民衆は常に政党政派に超越して、自由の立場に立って、捉はれざる判断をもって政党の行動を監視すべく、特殊の政党と腐れ縁を繋いではならない。また政党はいわゆる地盤を持つ時ごとに堕落に陥りやすい。・・・(中略)・・・一般民衆が政党の誘惑に応ぜず、常に自由独立の超然的態度を維持する時、初めて各政党は互いに善を競うこととなり、政治家の品性は向上し、政治の進運はきせらるるのである。・・・(清浦奎吾『圭堂夜話』より)

特定の政党を支持するのではなく、常に自由な立場で、その時その時に判断すべしと言えば、しごくもっとものようにも聞こえますが、有権者の生活時間は限られており、数多くいる政治家の一人一人の活動を網羅的に知ることなどほとんど不可能だし、また、公平な政治情報を日々一定量享受できなければ、政権を真っ当に批判することもできないでしょう。私たちは、同じ方向性の政治理念を持つ政党の主張を通して、政治の大局を知ることができます。

清浦政党排除は、つまりは批判の排除だったのでしょう。しかして、現状維持の方向性を持つ「特権内閣」が出来上がりました。議会で批判が噴出、それに対して清浦は衆議院を解散し(「懲罰解散」)、そして、選挙で大敗。 同年(大正13年)6月7日に総辞職となりました。 5ヶ月間の短命内閣でした。

板垣退助 大隈重信 伊藤博文
板垣退助
大隈重信
伊藤博文

日本での政党は、国会開設の機運の中(明治14年明治天皇が国会開設のみことのり を発する)、自由民権派から次々と生まれました。明治14年には、国会期成同盟を母体に板垣退助を中心に自由党が結成され、翌明治15年には下野した大隈重信を中心に立憲改進党が生まれました。それに対抗して政府支持の勢力が作ったのが立憲帝政党です。

そして、8年後の明治22年、大日本帝国憲法が発布され(近代国家の根幹をなす立憲主義の時代となる)、甚だ不十分な制限選挙でしたがそれでも初めての国政選挙が行われ、同年(明治22年)、最初の国家も開かれます。憲法体制下では自由民権派の流れをくむ政党が大きな地位と勢力を持ち、かつては藩閥勢力一色でしたが、徐々に民主的な世の中に移行していくようでもありました(大日本帝国憲法は天皇が大権をもつ欽定憲法でしたが)。

旧自由党系の憲政党が伊藤博文に接近して(憲政党は星 亨らの指導で解党)、明治33年(ジャスト1900年)、立憲政友会が結成(伊藤が初代総裁)、2年後(明治35年)の衆院選で過半数を制します。立憲政友会が結成される2年前(明治31年)には、憲政党を主体とする第1次大隈内閣(第8代)が誕生。これが日本で最初の政党内閣(政党を基礎にして組織された内閣)です。

立憲政友会の総裁は、伊藤博文(初代)、 西園寺公望 さいおんじ・きんもち (2代)、原 敬(3代)、高橋是清(4代)、田中義一(5代)、犬養 毅(6代)、鈴木喜三郎(7代)。昭和12年、大政翼賛会に合流し消滅します。

立憲政友会を基礎に組閣した犬養 毅(第29代)が凶弾に倒れた後は、アジア太平洋戦争で破れるまで、日本に政党内閣は生まれませんでした。

升味準之輔『藩閥支配、政党政治 (日本政治史2) 』(東京大学出版会) 筒井清忠『昭和戦前期の政党政治 〜二大政党制はなぜ挫折したのか〜 (ちくま新書)』。男子普通選挙の開始からわずか8年で政党政治が崩壊し、軍部が台頭したプロセスを、宮中、メディア、二大政党の観点から考察
升味準之輔『藩閥支配、政党政治 (日本政治史2) 』(東京大学出版会) 筒井清忠『昭和戦前期の政党政治 〜二大政党制はなぜ挫折したのか〜 (ちくま新書)』。男子普通選挙の開始からわずか8年で政党政治が崩壊し、軍部が台頭したプロセスを、宮中、メディア、二大政党の観点から考察
濱本真輔『現代日本の政党政治 〜選挙制度改革は何をもたらしたのか〜』(有斐閣) 中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー (岩波新書)』
濱本真輔『現代日本の政党政治 〜選挙制度改革は何をもたらしたのか〜』(有斐閣) 中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー (岩波新書)』

■ 参考文献:
●『奎堂夜話』(清浦奎吾 今日の問題社 昭和13年発行)P.254-257 ●『日本の「総理大臣」がよくわかる本』(御厨 貴 PHP研究所 平成21年発行)P.64-67 ●『明治大正史(下)』(中村隆英 東京大学出版会 平成27年初版発行 同年発行4刷参照)P.298、P.344-355 ●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤 信、五味文彦、高埜利彦、鳥海 靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷参照)P.353、P.361、P.374-.375

※当ページの最終修正年月日
2023.1.6

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