
東京憲兵隊大尉の甘粕正彦らに虐殺された3人。右下が大杉 栄、その左が大杉のパートナー・伊藤野枝、上が大杉の甥の
橘 宗一
※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『パンとペン』(黒岩比佐子 講談社) libcom.org/Noe, Ito, 1895-1923→ ・イレギュラー・リズム・アサイラム/「橘 宗一少年墓前祭」のご案内→
大正12年9月16日(1923年。
大杉 栄(38歳)とそのパートナー・伊藤野枝(28歳)、大杉の甥(妹・橘 あやめの子))の橘 宗一(6歳)が、皇居近くの大手門(東京都千代田区千代田1-1 Map→)前にあった麹町憲兵分隊(同じ敷地内に憲兵隊司令部もあった)に連行され、その日のうちに殺害されます。犯人は、3人の遺体を裸にし、畳表で巻き構内の古井戸に投げこんで、その上から瓦礫を投げ入れ隠蔽を計りました。井戸の水面には、“一仕事”を終えた後のものと思われるタバコの吸い殻が浮かんでいたとのこと。
絞め殺される前に激しい暴行が加えられたようで、大杉と伊藤の胸骨はメチャクチャになっていました。
関東大震災の15日後のことでした。
大正12年9月1日の関東大震災後、朝鮮人が団をなして襲ってくるという悪質なデマが広がり、朝鮮人と朝鮮人に間違えられた多くの人が自警団らに虐殺され、民主主義者(社会主義者や無政府主義者など)も保護検束の名目で捕らえられていきました。近藤憲二、和田
久太郎
、村木源次郎など大杉周辺の無政府主義者(民主主義者)も軒並み引っ張られました。大物の大杉や山川 均が捕まらなかったのは、影響力のある彼らに下手に手を出すと、後々面倒と考えられたからのようです。警察は動けないので憲兵隊で“やってくれ”との意向があり、東京憲兵隊大尉・甘粕正彦を中心に、特高課曹長・森 慶次郎、上等兵・鴨志田安五郎、上等兵・本多重雄、淀橋署特高課巡査部長・慈野三七郎(甘粕らを大杉の家まで案内した)の5人が大杉と伊藤の捕捉に動きました。
当日(大正12年9月16日)、大杉と伊藤は、横浜で被災した大杉の弟・勇を見舞うため、朝、家を出ました。途中、神奈川県川崎で、辻 潤(伊藤の元夫)も見舞っています(辻の家は崩壊し辻は不在だった)。大杉と伊藤は、混乱に乗じて革命を起こすどころか、相互扶助の精神(無政府主義の精神、アナキズムの精神)で、被災した同士や友人のために奔走していたのです。東京北新宿の柏木の大杉の家は、大杉を頼ってきた人たちでごった返していました。大杉と伊藤はそれを苦にする人たちではありませんでした。横浜鶴見で勇を見舞い、大杉と伊藤は、たまたま勇方に滞在していた宗一を柏木で預かることにして、連れて帰ることにしたのでした。大杉と伊藤には子どもが5人おり、1人くらい増えてもさほど違いはなく、子どもにとってもいいと考えたようです(大杉は“小さきモノ”の味方です)。
午後5時半ごろ、大杉と伊藤と宗一は、柏木の家の前に到着し、家の前の果物屋で土産を購入、大杉は宗一に赤いリンゴを持たせてやったといいます。家の前に甘粕と森らが張り込んでおり、果物を家に置く間も与えず、同行を要求。大杉はあっさりと同意しています。午後6時半ごろ、3人は麹町憲兵分隊に連れて行かれました。
3人は一旦、東京憲兵隊隊長室に入れられ、午後8時ごろ大杉だけが別の応接室に移動させられ森から取り調べを受けている時、しばらくして甘粕が入室、甘粕は右腕前腕を大杉の喉に当てて後ろに引き倒し、柔道の絞め技を10分程かけ続けて殺しました。森はあらかじめ大杉を殺すと聞いていたので、 黙って見ていたということになっています。
その後甘粕は隊長室に戻り、9時15分ごろ伊藤も絞殺。途中森が部屋に入ってきましたが、やはり一切手を貸さなかったと、後に甘粕は証言します。
宗一は隊長室の隣の部屋に移されていましたが、騒いだため殺されました。「御国のため」(「国益のため」)ならば、どんなに残酷なことでもできるのが“立派な軍人”(“立派な国民”)なんでしょうね。天皇主権の時代(その絶対性を利用して権力を掌握しようとした
輩
の時代)です。社会主義者、共産主義者、無政府主義者(アナキスト)など、民主主義を標榜した人たちは、皆、排斥・憎悪の対象となり、その関係者にも
累
が及びました。
宗一殺しは鴨志田や本多らがやったようですが、「上官の命令だからやりそこなうな」と甘粕と森から言われたと2人が証言するにいたって(鴨志田や本多とて子ども殺しの汚名を負うのは耐えがたかったのだろう)、甘粕は一度は否認した宗一殺しも自分がやったと証言。しかして、憲兵少将の小泉
六一
や憲兵大佐の小山介蔵には罪が及びませんでした。
事件の発覚は、宗一の父親(橘 惣三郎)が米国在住の貿易商で米国の国籍をもっていたため、米国大使館を通じて政府に抗議したからのようです。宗一が殺害されていなかったら、事件は行方不明、未解決事件とされたことでしょう。
12月8日、甘粕に懲役10年、森には3年の刑が下ります。鴨志田と本多は命令に従っただけとされ無罪となりました。
甘粕は3年弱下獄し、大正15年には恩赦で仮出所し、陸軍の予算で夫婦揃ってフランス留学という“ご褒美”までもらって、その後は満州を舞台に暗躍します。昭和14年には満州映画協会の理事長に就任、ハルビンオーケストラの活動に貢献、森繁久彌や山口淑子など甘粕を知る人たちは、口を揃えて私利私欲がなく、温厚で、日本人と満州人を分け隔てすることもなく、よく気がつく優しい人だったと言います。後年、甘粕は、仲間内で「ぼくはやっていない」とも語ったそうです。「大杉ら3名の殺害」は組織的な犯行であり、甘粕がその罪を被ったと考えるのが妥当でしょう。
大杉の葬儀の際、遺骨が盗まれるという酷いこともされています。大杉の同士らは怒り心頭、古田大次郎、和田
久太郎
、村木源次郎は、命令系統のトップの戒厳司令官・福田雅太郎の暗殺を企てます。震災からちょうど1年経った大正13年9月1日、長泉寺
(東京都文京区本郷5丁目6-1 Map→)で催される震災追悼会に福田が参加するのを狙いました。午後6時半ごろ、和田は、近くのフランス料理店「
燕楽軒
」(7年前の大正6年、宇野千代が18日間、給仕のアルバイトをした店)前で、福田の背中に一発放ちました。が、福田は無事。空砲だったか、近づきすぎて弾丸が外れたと考えられています。その犯行により、和田は無期懲役となり、福田狙撃未遂事件の4年後、獄中で縊死(昭和3年2月20日。35歳。5年後の同じ日(昭和8年2月20日)、小林多喜二、特高に殺される)。村木はもともと病身で予審中に肺病で倒れ、2年後の大正14年(35歳)死去しました(まともな治療などしてもらえなかったのだろう)。
3人殺したとされる甘粕は生きてその後活躍し、1人も殺していない(殺し得なかった)2人は、5年後には世を去りました。
「大杉 栄ら計3名殺害事件」の軍法会議で、憲兵の証言からもう一つの虐殺事件が明るみに出ます。9月3日頃から、平沢
計七
(34歳)ら10名の社会主義者・労働運動家が、東京
亀戸
署で刺殺されたというものです。さらにはそれに異を唱えた自警団員4名も殺された(自警団にも正気の人がいたのですね)。「
亀戸
事件」です。抗議の声があがりましたが、当局は「戒厳令下の適正な行動」として処理しました。現今、自民党・公明党・維新(国民民主党も?)が憲法に盛り込みたがっている「緊急事態条項」が追加されたら、このように緊急時と判断されれば、異論を暴力的に封じ込めることも可能になることでしょう。
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| 『大杉 栄 ~日本で最も自由だった男~(KAWADE道の手帖) 』。執筆・対談:栗原 康、大杉 豊、鎌田 慧、中森明夫、加藤登紀子、ECD、雨宮処凛、鈴木邦男、瀬戸内寂聴、宮崎 学ほか。大杉が人々に残したもの |
村山由佳『風よ あらしよ』(集英社)。駆け抜けた伊藤野枝の28年間。【本の雑誌が選ぶ2020年度ベスト10】の第1位。令和4年、NHKが奇跡のドラマ化。伊藤を吉高由里子が好演 ●参考ツイート(NHKドラマ)→ |
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| 佐野眞一『甘粕正彦 〜乱心の曠野〜 (新潮文庫)』 |
「金子文子と朴 烈
」。監督:イ・ジュニク。出演:イ・ジェフン、チェ・ヒソ。2人も震災後、保護検束され・・・ |
■ 馬込文学マラソン:
・ 瀬戸内晴美の『美は乱調にあり』を読む→
・ 辻 潤の『絶望の書』を読む→
・ 宇野千代の『色ざんげ』を読む→
■ 参考文献:
●『大杉 栄伝 〜永遠のアナキズム〜(角川ソフィア文庫)』(栗原 康 令和3年発行)P.288-291、P.299-302 ●「第22回諜報研究会第1部 インテリジェンス見学ツアー 資料」(正田浩由)(PDF→) ●『諧調は偽りなり(下)』(瀬戸内晴美 文藝春秋 昭和59年発行)P.183-187 ●『明治大正史(下)』(中村隆英 東京大学出版会 平成27発行)P.340-341 ●「大杉 栄のお墓参りと大杉 栄の甥の橘 宗一墓前祭」(黒岩比佐子)(site 1→ 2→ 3→)
当ページの最終修正年月日
2023.9.16
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