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『ファーブル昆虫記』の最初に登場する糞虫(ふんちゅう。ヒジリタマコガネ) ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『大杉 栄訳 ファーブル昆虫記(復刻版)』(明石書店) 大正11年8月22日(1922年。 大杉 栄(37歳)が、『ファーブル昆虫記』の初巻を翻訳し終え、「訳者の序」を書きました。 大杉は、民主主義を訴えたために何度も投獄されましたが(天皇主権の時代で、民主主義を主張するだけでも捕まりかねなかった)、それを苦にするでもなく、獄中で、読書と学びの日々を送っています。『ファーブル昆虫記』も獄中で読み、その全10巻の日本語訳を思い立ちました。 監獄(東京都の中野にあった豊多摩監獄)には他にもいろいろ洋書を持ち込みましたが、『ファーブル昆虫記』(仏版と英訳版)が面白くて、他の本は必然後回しになりました。 『ファーブル昆虫記』の最初に出てくるのが、ファーブルが最も苦労して研究・観察したという
糞虫がどうしてあんな「ウンコの玉」を作るかが書かれた下りは、 ・・・それを自分のたべ物にする時には大して選り好みをしないが、その真ん中に卵が
「ウンコの玉」は自分が食べること以上に、産まれてくる赤ちゃんのためでした。「初めは最大限に守り、それから自立へと促す」といった“教育論”を彼らは本能的に感得しているかのようです。 幾何学的といっていい程美しい「ウンコの玉」の作り方については、 ・・・歯のついた足を右左にひろげて、恐しい勢で半円形に取り払つて行く。かうして取り払はれると、こんどはその同じ足がほかの仕事をする。即ち、帽子で掻き取つたものを抱え集めて、それを腹の下の四本の後足の間へ押してやる。この後足は
体の各部位の形にはそれぞれ訳があり、それを誰から教わるでもなく理解し、それらを巧みに操って造形していく糞虫。ファーブルは彼らに「神の技」を見たようです。虫たちの「完璧な生態」を知ったファーブルは、生物が徐々に進化していくというダーウィンの考えには反対でした。 そして、糞虫たちの大胆で、粘り強いことといったら、 ・・・ところが、さうもしない。そしてその近くに登る事の出来ないやうな、ごく険しい坂があれば、この頑固ものはその坂を選んで行くのだ。 ・・・(中略)・・・こんな大きな玉が、どうした重学(力学のこと)上の奇跡から、坂の上に止まつてゐる事が出来るのだろうと不思議な位だ。が、ちよつとでも間違へば、あれ程の苦労が皆な空になるのだ。玉はスカラベ(糞虫のこと)もろともに谷底に落ちてしまう。 又登る。やがて又落ちる。又登りはじめる。そしてこんどはうまく難所を避けて、いつも転んだもとの芝草の根のところをまはつて行つた。もう少しだ。が、ゆつくりとゆつくりと行け。坂路はあぶない。何んでもないやうな事でも総てをぶち壊してしまふ。そら、石つころの上で足がすべつた。・・・ と、ファーブルさん(おそらくはこれを訳している大杉も)、完全にもう、糞虫さんたちの応援団と化していますね!
本になった翻訳本『昆虫記(1)』を大杉は辻 まことにプレゼントしています。まことは、大杉と行動をともにしていた伊藤野枝と伊藤の前夫・辻 潤との間の子です。大杉はパートナーの前夫との子も可愛がっていました。 大杉は、2巻、3巻・・・と翻訳し、全10巻を出版するつもりでしたが、、翌年(大正12年)、憲兵に虐殺されてしまい、その夢も潰えます。ファーブルの紹介が大杉の最後の仕事と言ってもいいかもしれません(殺された年(大正12年)にも、ファーブルの『自然科学の話』『科学の不思議』を伊藤と共訳)。
『昆虫記』を書いたファーブルは、1823年生まれのフランス人(勝 海舟と同い年)。貧しい農家に生まれ、苦学の末にリセ(高等中学校)の教師となり、科学を教えていました。ところが、礼拝堂で「めしべとおしべの受粉」を説明したところ、“卑猥”であると問題視されます。そして教壇を追われ、家主からも追い出されたファーブル。困窮し、生計を立てるために筆をとって書いたのが『昆虫記』なんだそうです(昆虫観察は以前からずっと続けていた)。明治12年(55歳)から出版され、最後の第10巻が発行されたのは明治43年(87歳)。約30年にわたって書かれました。 大杉が昆虫記を訳出する3年前(大正8年)、「貧民街の聖者」と呼ばれたキリスト教社会運動家・賀川豊彦が、日本で最初にファーブルを紹介しました。その後、賀川の友人の
彼らは、昆虫たち(小さなものたち)が、「完璧な姿」であること、また「互いに助け合って生きていること」(相互扶助していること)に感動して、『ファーブル昆虫記』に夢中になったようです。 戦乱や干ばつに苦しむアフガニスタンで、30年以上にわたって水源確保、農業指導、診療活動を行ってきた中村 哲が、『ファーブル昆虫記』と出会って最初昆虫学者を目指したのも、
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |