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明治35年7月18日(1902年。
信用組合とは、農協や生協などと同じく、協同組合運動の中で生まれた金融組織です。協同組合とは、ある地域内(または特定業種内、同じ職場内)で、労働者が相互に助け合うことを目的にした組織。58年前の1844年(黒船来航の9年前)、英国のマンチェスター地方で、世界で初めての協同組合「ロッチデール公正先駆者組合」が誕生しました。 資本主義社会以前の社会は、農業を基本産業として、人々は地縁、血縁で結びつき、相互扶助(助け合い)をしていました。しかし、人々は貧しく、相互扶助も共同体の規範によって縛られた強制的なものでした。 世界は1700年代末から現代社会に突入します。科学技術の発展により機械が開発され、機械を導入した工場が建ち(「産業革命」)、それにともない、機械や土地や余剰金をもつ「資本家」が誕生。その「資本家」が、資本を持たない「労働者」を支配するようになります。資本主義の時代の到来です。 資本主義は、今までのどん底の貧困状態から人々を解放した一面もありましたが、「資本家」が「労働者」を隷属させて(こき使って)肥えふとり、非人間的な差別構造や、絶望的な格差が顕著になってきます。 「資本」(軍事力を含む)を背景に、他国を支配いったのが帝国主義です。 「ロッチデール公正先駆者組合」は、こういった 産業革命や資本主義がもたらした経済的不安定を改善するため、28人の労働者が集って1ポンドずつ出し合い、困った時助け合うことを始めました。出資額に差が出ても、議決するときは「1人1票」。「資本」の力が働かないようにしたのです。「ロッチデール原則」と呼ばれ、現在も協同組合運営の規範になっています。
協同組合運動はドイツにも伝わり、ヘルマン・シュルツェが商工業者のための信用組合を、フリードリッヒ・ライファイゼンが農家のための信用組合を設立。それらはドイツ全土に広まり、地方の経済を支えました。 当時、ドイツの信用組合の成果を目の当たりにした品川弥二郎と平田東助が、ドイツ留学から帰国し、「産業組合法」の制定に尽力、明治33年に制定されました。 「入新井信用組合」は「産業組合法」制定後いち早く(制定後2年)作られ、その先駆けとなります。 農家も、明治33年に制定された「産業組合法」に基づいて産業組合を作るようになりました。現在のJA(Japan Agricultural Cooperatives。農業協同組合(農協))は、それらの産業組合を母体に、戦後(昭和22年)制定された「農業共同組合法」(農協法)に基づいて設立されました。 co-op(コープ)(生協。生活協同組合。消費生活協同組合)も、戦前からの産業組合(消費組合)を母体に、戦後(昭和23年)に制定された「消費生活協同組合法」に基づいて設立されました。 これらの組織は、お金や市場を絶対視する市場原理主義に抵抗し、「人を大切にすること」をモットーに、相互扶助の理念で運営されてきました。 資本主義の弊害(非人間的な差別構造、絶望的な格差、競争原理からの環境破壊や、天然資源の蕩尽など)を解消するため、労働者による資本家への働きかけ(労働運動)がなされるようになり、また、生産手段を社会化して格差の是正を目指す社会主義の思想も芽生えます。
「相互扶助」という言葉は、ロシアの思想家・クロポトキンが使い始めました。ダーウィンの進化論の「生存競争」「適者生存」「自然淘汰」といった考え方が、「資本家」が「労働者」を利用・支配・搾取することや、軍事大国が他の国を支配・蹂躙することに、お墨付きを与えてきました。クロポトキンは、そういった進化論の一側面がいたずらに強調されることに警告を発し、人には「相互扶助を欲する社会的本能」があるとし、人々が自発的に助け合う社会を提案しました。小規模、中規模、大規模の相互扶助がなされれば、強大な権力などいらないと考えるのが「アナキズム」(無政府主義)です。 アナキズムを生活・社会に完全に適用するのは難しいとしても、資本主義でボロボロになりつつある地域・社会・地球には、アナキズム的発想(相互扶助的な発想)がもっともっと必要です。 ちなみに、クロポトキンの影響を受けた幸徳秋水も、大杉 栄も、当局により殺害されました(「明治43年の大でっち上げ事件」(俗称「大逆事件」)→ 「大杉 栄ら計3名殺害事件」(俗称「大杉事件」「甘粕事件」)→)。帝国主義や権威主義の敵と考えられたのでしょう。
■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |