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明治37年11月13日(1904年。 、「平民新聞」の第53号(創刊1周年記念号)に、マルクスとエンゲルスが書いた『共産党宣言』の日本語訳が掲載されました。 しかし、即日発売禁止。発行者兼編集者の西川光二郎(28歳)と、翻訳した幸徳秋水(33歳)と堺 利彦(33歳)の3人は、前号(第52号)に掲載された記事と合わせて罪に問われ、「新聞紙条例」(後の「新聞紙法」。「出版法」とともに世界でも類がないほどの悪法)違反で起訴され、西川と幸徳に禁錮と罰金の判決が下り、「平民新聞」は発行禁止となり、印刷機も没収となりました。 『共産党宣言』には、どんな“よろしくないこと”が書かれていたというのでしょう?
公平・公正を目指す思想は昔からありましたが、マルクスとエンゲルスは、実際の労働現場を観察し、資本主義の発展法則を考察、社会は不公平・不公正をもたらす資本主義から、公平・公正な共産主義へと移行するだろうと予測。そして、その近未来に向け、資本家による搾取の現実を知って、 ・・・ と呼びかけました。 「資本家」(生産手段(資本。機械や土地など)を所有する人)が労働者を雇って生産を行うのが資本主義です。1700年代から英国が先駆けて、機械化によって綿工業、毛織物業、鉄工業などを大発達させますが(「産業革命」)、その過程で、多くの「近代的労働者(プロレタリア)」が生まれました。資本主義の宿命・競争原理で、プロレタリアは資本家に尻を叩かれ悲惨な労働に従事することとなり社会問題となります。この傾向は、ベルギー、フランス、ドイツ、米国にも波及しました。 1842年、ドイツの思想家・エンゲルス(22歳)は、英国にわたって産業と労働者の状況をつぶさに見ます。2年後の1844年、パリで経済学の研究・運動をしていたマルクス(26歳。プロイセン出身)を訪れ、2人は意気投合、共に研究を重ねていくこととなります。『共産党宣言』は、2人が出会って4年経った1848年(日本史でいえば黒船が来航する5年前)、ロンドンで発行されました。 『共産党宣言』の出版後56年たった明治37年、日本語訳されたのは、日本にも「産業革命」の波が本格的に訪れたからでしょう。足尾銅山鉱毒事件などで資本主義の問題点が明瞭になってきました。 日本共産党(「(第一次)日本共産党」)の誕生は大正11年です。堺 利彦(51歳)、山川 均(41歳)、荒畑寒村(34歳)ら60人ほどが集まりました。革命に成功したロシアの主流派(ボルシェビキ)の国際組織・コミンテルンに加入し、その日本支部としてソ連(ロシア)から指導され、資金もソ連に依存します。しかし、コミンテルンから送られてきた「日本共産党綱領草案(1922年テーゼ)」によって、日本の党員にはやくもジレンマが起きました。そこには 「天皇制の廃止」と明記されていたからです。当時それを主張すればただでは済まなかったし、また、党員の中にも天皇を敬愛する人がいたのです。コミンテルンは天皇をふんぞり返る絶対君主くらいにしか考えなかったようです。「(第一次)日本共産党」は、翌大正12年、党内に潜入したスパイによって内部文書が当局に渡り、党員のほぼ全員が検挙されて解散となります(「森ケ崎会議」)。 3年後の大正15年に再建(「(第二次)日本共産党」。非合法)。新たに参加した福本和夫(32歳)の理論(福本イズム。純正マルクス主義者が労働者をリードすることを主張)が主流となって、山川 均の理論(山川イズム。合法的無産政党を運動の中心にすえる)を「折衷主義」「組合主義」と批判し、押しやりました。同年、山川や荒畑らは「労農党」(合法。社会党系)を結成。とはいえ、昭和3年の「(第一回)普通選挙」のおり「労農党」から立候補した山本宣治(38歳)を「(第二次)日本共産党」も水面下で応援、山本を当選に導きました。 天皇主権の非民主主義の世の中ですから、たとえ1名であっても民主主義系(共産主義、社会主義、アナキズムなど)の国会議員が生まれたのに当局は脅威を感じたのでしょう。選挙1ヶ月後の昭和3年3月15日、共産党員を中心に約1,600名を検挙(「三・一五事件」)。「労農党」も結社禁止となり、翌年(昭和4年)には、山本が右翼に暗殺され(3月5日)、地下党員を中心に4,942名が検挙されました(「四・一六事件」)。「(第二次)日本共産党」の幹部だった市川正一(37歳)も当地(東京都大田区馬込)に潜伏中捕らえられ、またしても党中央部は壊滅します。 同年(昭和4年)、東大新人会出身の田中清玄(23歳)を中心に再建されますが、当局の暴力に対抗すべく武装闘争路線を展開(「(武装)日本共産党」)。昭和6年からの風間丈吉(29歳)を中心とした「(非常時)共産党」も、「1932年テーゼ」の「天皇制廃止」を組合団体「全協」(合法)などに押しつけ、当局の弾圧を招来させてしまいました。特高のスパイが党内に恒常的に潜入するようになり、昭和7年に「大森銀行強盗事件」が起き、またしても大量検挙(「熱海事件」)。昭和8年には小林多喜二が殺され、佐野 学(41歳)と鍋山貞親(31歳)が獄内で転向。特高のスパイが党の指導部にまで入り込んだため党内では互いに疑心暗鬼となってリンチ事件も起きました。昭和10年、戦前の最後の中央委員といわれる袴田里見(30歳)が検挙されて、戦前の日本共産党中央部は全滅します。 戦後の日本共産党は、獄中でも非転向を貫いた徳田球一(敗戦時50歳。入獄18年間)、志賀義雄(敗戦時44歳。入獄17年間)、宮本賢治(敗戦時36歳。入獄11年間)らを中心に、合法政党として再建されました。昭和30年の「六全協(第6回 全国協議会)」以後、ソ連から押し付けられてきた武力革命路線を明確に退け、「資本主義の枠内での民主主義革命」「議会を通じての改革」を目指すようになります。中国の大国主義、覇権主義、人権侵害についても、「社会主義」「共産党」に値しないと批判、自主独立路線をとるようになります。「六全協」での武力革命路線の否定について行けなかった(ついて行かなかった)者たちの一部が、新左翼や過激派になっていきます。 近年の日本共産党は、民主主義・平和主義・立憲主義で一致できる他党との協力を打ち出し、野党共闘でブレない毅然とした態度を取っています。 公安調査局が「破防法(破壊活動防止法)」で日本共産党をいまだ監視対象にしているのは、戦前から公平・公正を目指して戦ってきた人たちを弾圧してきた側(特高関係者や戦犯指定者)の流れを組む、「民主主義なんてだ〜い嫌い」な人たちが日本の中枢にいまだにデンと構えているからなのでしょう。「全体主義的・独裁的な共産主義を
■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |