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「大森へ行く」意味(明治40年6月23日、夏目漱石の『虞美人草』の連載が始まる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏目漱石

明治40年6月23日(1907年。 夏目漱石(40歳。※漱石の満年齢は明治の元号年と一致)の小説『 虞美人草ぐびじんそう 』の連載が「朝日新聞」で始まりました。

東京大学などでの教授職を投げ打って職業作家として歩み出した漱石の第一作で、とても話題になり、三越では虞美人草浴衣が売り出され、駅の売り子は「漱石の虞美人草~、虞美人草~」と新聞を売り歩いたとか。

秀才の誉れ高い一青年が、清楚で気だてのいい娘と、天女が舞い降りたかのように美しく聡明だけれど極めて傲慢な娘との間で、心揺らす話です。若い彼は“天女”の方に強く惹かれますが、“気だてのいい娘”の方はどん底の彼を引き揚げてくれた恩師の娘。おいそれとは“天女”の方にはいけません。気の弱い彼は、知人に頼んで、恩師の娘との縁談を断ろうとします。

そんなとき、「大森へ行く」という話が出てきます。当地(東京都大田区)の大森です。青年は“天女”と「大森へ行く」ことで、“既成事実”を作ろうとします。

・・・小野さんは明日藤尾と大森へ遊びに行く約束がある。──大森から帰ったあとならば大抵な事が露見しても、藤尾と関係を絶つ訳には行かぬだろう。そこで井上へは約束通り物質的の補助をする。・・・(夏目漱石『虞美人草』より)

「小野」は青年で、「藤尾」が“天女”。「井上」は青年の恩師で今や窮乏しています。井上には「物質的の補助」でお茶を濁そうというわけですね。しかし、大森へ行くだけで“既成事実”ができてしまうとは!

この「大森」は、現在のJR「大森駅」(東京都大田区大森北一丁目6 map→)あたりというより、京浜急行「大森海岸駅」(東京都品川区南大井三丁目32 map→)あたりでしょうか。

大森海岸駅(八幡やはた 駅→海岸駅→大森海岸駅と改称)近くに海水浴場ができるのが明治24年。2年後(明治26年)には料理屋「伊勢源」ができ、翌年(明治27年)の日清戦争景気で大繁盛。明治34年に八幡駅ができたことで店が増え、『虞美人草』が書かれた明治40年頃には 規模のある遊興地帯 になっていました。昭和2年には、「置屋」(芸妓の抱え元)が52件あり、芸妓が240人ほどいたそうです。昭和20年、当時の店を生かし、占領軍のための日本初の「特殊慰安所」ができました。

『虞美人草』の「大森」はそういった大森(つまりは花街かがい)なので、博物館や公園のある町でデートするのとは訳が違います。

花街には、「料理屋」「置屋」「待合(待ち合わせ・飲食・「待合遊び」(芸妓との遊興)の場)」があり、三業地と呼ばれます。「待合」での性的交渉を踏んでか警察署の指定する場所に限って営業が許可されるようです(現在は公安委員会の監督下)。「待合」がないと二業地と呼ばれますが、三業地と同様のことが行われるのでしょう、花街とほぼ同義です。

「待合」は男女の密会にも利用され「出会茶屋」とも呼ばれました。現在のラブホテルのようなものでしょう。江戸時代の1600年代にはもうあって、希代きたい の絶倫男を描いた井原西鶴の『好色一代男』にも出てきます。

『虞美人草』の小野青年は、そういった大森に行くことで“既成事実”を作ろうとしましたが、ことは思ったようには進まず、悲劇の様相を帯びてきます。

「磐井(いわい) 神社」(東京都大田区大森北二丁目 20-8 map→)の玉垣に刻まれた寄進者の名。「鯉屋」は芸妓屋で、土地の開祖として権勢を誇った
磐井いわい神社」(東京都大田区大森北二丁目20-8 map→)の玉垣に刻まれた寄進者の名。「鯉屋」は芸妓屋で、土地の開祖として権勢を誇った

当地の花街(三業地、二業地)は、「大森海岸駅」あたりに限らず、その海岸線沿いに、東京に向っては大井、そして、川崎に向っては森ヶ崎羽田穴守と点在していました。

永井荷風

永井荷風の代表作の一つ『腕くらべ』には、森ヶ崎が出てきます。森ヶ崎は、明治27年に鉱泉が発見され、鉱泉旅館が増えていきました。旅館も男女の密会の場として使われました。

明治27年に鉱泉が発見され、森ヶ崎には鉱泉旅館が並ぶようになる。写真は明治40年頃 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『大田区史(下巻)』 大森寺 ( だいしんじ ) の「森ケ崎鉱泉源泉碑」(東京都大田区大森南五丁目 1-2 map→)。森ヶ崎での鉱泉発見は明治27年だが、明治32年発見とある
明治27年に鉱泉が発見され、森ヶ崎には鉱泉旅館が並ぶようになる。写真は明治40年頃 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『大田区史(下巻)』 大森寺 だいしんじ の「森ケ崎鉱泉源泉碑」(東京都大田区大森南五丁目 1-2 map→)。森ヶ崎での鉱泉発見は明治27年だが、明治32年発見とある

保険会社の営業係長で羽振りのいい吉岡は2人ほど女性を抱えていましたが、ある日帝国劇場で“最初の女”の駒代にばったり出会って彼女に再び心惹かれていきます。二人で伊豆・箱根あたりに小旅行に出るつもりが大雨で東海道線が不通になり、ではということでやって来たのが森ヶ崎。都心から人力車で行けるちょっとした遠隔地だったのでしょう。

『腕くらべ』が書かれた大正6年頃の森ヶ崎にはまだ「置屋」がなかったようで、静かでした(芸妓屋組合の発足は大正11年)。

・・・最初は自分から勧めて泊りに来たこの三春園が牢屋としか思はれなくなつた。
 どこかでにわとりの鳴くこえが聞えた。駒代の耳にはそれが際立つて田舎いなからしく聞えると、たちまち遠い遠い秋田にゐた時の辛い事悲しい事心細い事のさまざまが胸に浮んで来る。鶏につづいてからすの鳴くこえ。縁先には絶えずかすかにむしが鳴いてゐる。駒代はもうたまらなくなつた。もうこゝに愚図ぐず々々してゐたら一生新橋へは帰られなくなつてしまふかも知れない。何故新橋がそんなに懐しく心丈夫こころじょうぶに思はれるのか。ただわけもなく駒代は夢中でこの家を逃げ出さうと、かわやほか はよくも案内知らぬ廊下へと細帯のまゝ飛び出した。・・・(永井荷風『腕くらべ』より)

と飛び出した出会い頭で、今度は駒代の方が“運命の人”と出会います。本格的な“腕くらべ”はこれからのようです。

『腕くらべ』の三春園は架空のものでしょうが(「三春」という旅館はあった)、森ヶ崎には実際に「大金だいきん」という旅館があって、そこには芥川龍之介久米正雄徳田秋声広津和郎尾崎士郎尾崎一雄、徳川夢声らが逗留、一種の文士宿の感があったようです。執筆だけでなく“遊ぶこと”もできたのでしょうね。近松秋江は「大金」で彼の代表作『黒髪』Amazon→を書き上げたようです。逗留中の近松が、吉屋信子を誘っています。吉屋は『私の見た人Amazon→でその時の近松のことをすごく悪く書いていますね(笑)。染谷孝哉は森ヶ崎を大田区の文学の中で馬込につぐ重要な場所としています。

大正13年3月、「第一次 日本共産党」のメンバーが森ヶ崎の鉱泉旅館「寿々元」に集い、解散を決しています(「森ヶ崎会議」)。その頃の日本共産党は非合法ですから、遊ぶと見せかけて集ったのでしょう。

夏目漱石『虞美人草 (角川文庫) 』 永井荷風『腕くらべ (岩波文庫) 』
夏目漱石『虞美人草 (角川文庫) 』 永井荷風『腕くらべ (岩波文庫) 』
都築響一『ラブホテル 〜Satellite of LOVE〜』(アスペクト) 井上章一『愛の空間 〜男と女はどこで結ばれてきたのか〜 (角川ソフィア文庫)』
都築響一『ラブホテル 〜Satellite of LOVE〜』(アスペクト) 井上章一『愛の空間 〜男と女はどこで結ばれてきたのか〜 (角川ソフィア文庫)』

■ 馬込文学マラソン:
芥川龍之介の『魔術』を読む→
広津和郎の『昭和初年のインテリ作家』を読む→
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
吉屋信子の『花物語』を読む→
染谷孝哉の『大田文学地図』を読む→

■ 参考文献:
●「花街をめぐる世界」(山本定男)※『大田区史(下巻)』(東京都大田区 平成4年発行)P.499-506 ●「三業地」(原島陽一)※『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)に収録コトバンク→ ●「出合茶屋」※「日本国語大辞典(精選版)」(小学館)の一項目コトバンク→ ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.187-195 ●『大田区の史跡散歩(東京史跡ガイド11)』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.43

■ 謝辞:
・ 東京都大森貝塚保存会のNY様より、旅館「大金」の読みを教わりました。ありがとうございます。

※当ページの最終修正年月日
2023.6.23

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