{column0}


(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

質屋に走る(大正5年12月29日、山村暮鳥、室生犀星の下宿に謎の来訪)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大正8年頃(30歳頃)の室生犀星 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『切なき思ひを愛す(室生犀星文学アルバム)

 

大正5年12月29日(1916年。 東京田端の農家の離れに下宿していた室生犀星(27歳)を、茨城の山村暮鳥(32歳)が訪ねて来ます。

犀星は『我が愛する詩人の伝記』で、「大正三、四年頃であろうか」と書いていますが、大正5年創刊の誌誌「感情」で暮鳥と交流し始めたはずなので、大正5年ではないでしょうか。 犀星の田端住まいも大正5年7月からなので、それなら辻褄が合います。

「感情」誌上や手紙でのやりとりはあっても、二人が会うのは初めてだったようです。

「感情」の編集で金銭的に窮々だった犀星は、暮鳥に気づかれないよう貸し 布団ふとん 屋から一人前の寝具を借り、質屋に衣類を入れてお金を作って接待しています。

暮鳥は年を越しても犀星の所に留まり、その間、翻訳した 『ドストエフスキ書簡集』 を新潮社に売りこみに行ったりしていたようですが、その来意の本当のところを知る前に、暮鳥は大正13年(40歳)、結核で逝ってしまいます。この“謎の来訪”について、後年、犀星が次のように書いています。

・・・彼が貧乏書生の私の下宿に身を寄せた原因が、どこにあるのか、いまだに解っているようで、判らない。 暮鳥は茨城の田舎に帰郷すると、すぐ同人費五円を送付して来た。 彼も苦しかったろうが、私も窮し果てていたのだ。 その後も、暮鳥からはどうして私を突然訪ねたかも報せて来ないし、私もついに、それをただす手紙も書かないまま、いまだに、暮鳥を想うとその謎が浮んで来るのである。・・・(室生犀星 『我が愛する詩人の伝記』 より)

作家の評伝にはしばしば「質屋」がでてきます。

尾崎士郎

尾﨑士郎山本周五郎はそりが合わなかったようですが、“馬込文士村”の住人同士というよしみで尾﨑が質屋に懐中時計を入れて借り入れ、周五郎に用立てようとしたことがありました。周五郎は人を見る目が厳しく、この時のことを次のように言ったそうです。貸そうとしたのに文句をいわれる尾﨑がちょっとかわいそう。

・・・士郎さんは、すぐ男と男の約束だとか、男と見込んで、とかそんなような言葉を使うのがすきだったな。いつか、ポンと胸を叩いておれにいうんだ、山本くん、君の人生はおれが責任をもってひきうけた、困ったときがあったら、いつでもよいから相談してくれ、なからずなんとかするから、っていうんだよ。すると困ったことが出来たので士郎さんのところへ出かけていって相談した。・・・(中略)・・・ぼくに一円二十五銭わたしながら、半分っこしよう、今日はこれを持ってってくれ、とうんだ。こっちが必要なのは十円ぐらいだったから、それならいらないと返したんだが、全責任をもつ、君の生命はおれが預かった、などというのが、一円二十五銭なんだな。・・・(中略)・・・つねに颯爽さっそうたるものだった。しかし、ぼくはあの颯爽ぶりを好まない。壮烈な言葉を弄するのはきらいだ・・・(山本周五郎談話 『山本周五郎 ~馬込時代~』(木村久邇典くにのり )より)

山本実彦

大正8年、山本実彦(33歳)が発刊した総合誌「改造」は3号までは全く売れませんでした。山本はたちまち窮乏し、東京品川に建てたばかりの邸宅を手放さざるを得ないほどになります。一つの事業を立ち上げるというのは生易しいものではありませんね。そんなおりに運悪く!、広津和郎が原稿料の前借りに来ます。山本は用立てるために質屋に走っています。

作家というマイノリティーが生き残るには相互扶助が欠かせなかったのかもしれませんが、世の中全体、「お金は天下の回りもの」「お互い様」といったシェア感覚が今よりかは遥かに浸透していたのかもしれませんね。

川端康成

川端康成は昭和3年から昭和4年(29歳~30歳)にかけて当地(東京都大田区南馬込三丁目33-2 map→)に住んでいましたが、当地にあった質屋「杉井商事」(東京都大田区西蒲田六丁目36-7 map→)を利用しています。川端は当地の作家の中では 「家賃を払う能力がある」 貴重な存在でしたが、ある日、秀子夫人が臼田坂で転び流産してしまい、その後、仕事に手がつかなくなります。知人が妻の帯やら指輪やらを提供してくれ、それを質草に川端はお金を借りました。「杉井商事」には上野桜木町に越してからも通っています。「個人からお金を借りれば頭を下げなきゃならない、でも質屋なら商売だから頭を下げる必要もなく、卑屈になることもない」というのが持論でした。

山本周五郎

いろいろつながってくるもので、川端が利用した「杉井商事」店主の杉井秋夫さんは、山本周五郎の『青べか物語』の「残酷な話」に出てくる杉井 春がモデルなんだそうです。秋夫さんの兄の勝一郎さんは、周五郎が徒弟だった「きねや質店」(東京都中央区銀座七丁目12-6 map→)の番頭でした。

ややこしい話になりますが、山本周五郎というペンネームは、その「きねや質店」の主人の名前です。周五郎は彼の名をそのままペンネームにしました。「きねや質店」主人の“山本周五郎”が周五郎に与えた影響は計り知れません。

「きねや質店」主人“山本周五郎” ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『山本周五郎(新潮日本文学アルバム)』 「きねや質店」があったあたりの現況(焦げ茶色のビル)。関東大震災で倒壊後、再建されたビルは3階建だった 撮影:H22.5.8
「きねや質店」主人“山本周五郎” ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『山本周五郎(新潮日本文学アルバム)』 「きねや質店」があったあたりの現況(焦げ茶色のビル)。関東大震災で倒壊後、再建されたビルは3階建だった 撮影:H22.5.8

------------------------------------------------------

栗島すみ子 樋口一葉 川口松太郎

文豪二世の幸田 文はさぞかし悠々自適だっただろうと思いきや、幸田露伴が甘やかさなかったからなのかも知りませんが、経済的に苦労しています。当地(東京都大田区山王四丁目26 map→)のアパートに住んだ頃、夫と会員制の酒屋を始め、事務所を東京築地の小さなビルの一室に構え、電話で注文が入ると、彼女も一升瓶を抱えて配達にまわっています。経営がままならず、困窮し、布団まで質屋に持ち込んだこともあったとか。

当地とは直接には関係ないかもしれませんが、樋口一葉の質屋通いは有名ですね。彼女は高邁な文学的使命感から小説を書いたのではなく、ひたすら家族の生活のために小説を書いたようです。どういったことから“傑作”が生まれるか、分からないですね。

川口松太郎も小学校卒業後、山谷(東京都台東区)の質屋「豊島屋」で働いています。川口の場合は、番頭を見て「自分もこのままじゃああなっちまう」と14歳で店を飛び出して、浅草伝法院の石塀の外に古本を並べて独立します周五郎とは逆で、質屋の人が反面教師になったようです。

山本周五郎 『青べか物語 (新潮文庫)』 安岡章太郎『質屋の女房 (新潮文庫) 』
山本周五郎 『青べか物語 (新潮文庫)』 安岡章太郎『質屋の女房 (新潮文庫) 』

■ 馬込文学マラソン:
室生犀星の『黒髪の書』を読む→
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
山本周五郎の『樅ノ木は残った』を読む→
広津和郎の『昭和初年のインテリ作家』を読む→
川端康成の『雪国』を読む→
川口松太郎の『日蓮』を読む→

■ 参考文献
●『我が愛する詩人の伝記(新潮文庫)』(室生犀星 昭和41年初版発行 昭和54年18刷参照)P.155-164 ●『山本周五郎 ~馬込時代~』(木村久邇典 福武書店 昭和58年発行)P.70-71、P.79-81 ●『山本周五郎(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年初版発行 昭和61年2刷参照)P.18-23 ●『川端康成とともに』(川端秀子 新潮社 昭和58年)P.38-40 ●『改造社山本実彦』(松原一枝 南方新社 平成12年発行)P.94 ●『幸田 文(新潮日本文学アルバム)』(平成7年発行)P.34-37、P.58-63 ●『空よりの声 ~私の川口松太郎~』(若城希伊子 文藝春秋 昭和63年発行)P.26

※当ページの最終修正年月日
2018.12.29

この頁の頭に戻る