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大正5年12月29日(1916年。 東京田端(map→)の農家の離れに下宿していた室生犀星(27歳)を、茨城の山村暮鳥(32歳)が訪ねて来ます。二人が会うのは初めてだったようです。 同人詩誌「感情」の発行・編集で金銭的に窮々だった犀星は、暮鳥に気づかれないよう貸し
暮鳥は年を越しても犀星の所に留まり、その間、作品の売りこみに行ったりしていたようですが、その来意の本当のところを犀星が知る前に、大正13年(40歳)、結核で逝ってしまいます。この“謎の来訪”について、後年、犀星が次のように書いています。 ・・・彼が貧乏書生の私の下宿に身を寄せた原因が、どこにあるのか、いまだに解っているようで、判らない。 暮鳥は茨城の田舎に帰郷すると、すぐ同人費五円を送付して来た。 彼も苦しかったろうが、私も窮し果てていたのだ。その後も、暮鳥からはどうして私を突然訪ねたかも報せて来ないし、私もついに、それを
こんな風に、作家の評伝には、しばしば「質屋」がでてきます。 尾﨑士郎が質屋に懐中時計を入れて借り入れ、山本周五郎に用立てしたことがあります。周五郎は人を見る目が厳しく、その時のことを次のように言ったそうです。 ・・・士郎さんは、すぐ男と男の約束だとか、男と見込んで、とかそんなような言葉を使うのがすきだったな。いつか、ポンと胸を叩いておれにいうんだ、山本くん、君の人生はおれが責任をもってひきうけた、困ったときがあったら、いつでもよいから相談してくれ、なからずなんとかするから、っていうんだよ。すると困ったことが出来たので士郎さんのところへ出かけていって相談した。・・・(中略)・・・ぼくに一円二十五銭わたしながら、半分っこしよう、今日はこれを持ってってくれ、と
金を貸そうとしたのに文句言われる尾﨑がちょっとかわいそう。 川端康成は「家賃を払う能力がある」 貴重な存在でしたが、ある日、
川端は当地(東京都大田区)に来る前、熱海にいましたが、ある人の別荘を1ヶ月120円で借りていました。市営アパートの家賃が6畳2間で20円の時代ですからその約5~6倍です。「お金があるようでなく、ないようである」のが作家ってもんでしょうか? 樋口一葉の質屋通いも有名です。彼女は高邁な文学的使命感から小説を書いたのではなく、ひたすら家族の生活のために小説を書いたようです。で、あの傑作です。 原稿料の次があるかはわからないので、オファーがあると、ついつい頑張りすぎてしまうのでしょうか、 昭和21年に発表した『堕落論』(Amazon→)で大ブレイク中の坂口安吾(39歳)は、ヒロポンを打ちながら、4日間一睡もしないで執筆したりしています。むろん心身を壊します。 手堅くやったのが夏目漱石。第一高等学校(現・東京大学)などで教鞭をとっていましたが、明治40年(40歳)、朝日新聞社から声がかかります。漱石は2年前(明治38年)『吾輩は猫である』(Amazon→)がヒットしすでに人気作家でした。手当、身分保障、執筆条件、出版権の確保、退職後の希望などの条件を出し、それが受け入れられたために全ての教職を辞して朝日新聞社の社員になります。月給200円で、年に一度、新聞連載100回ほどの小説を書くことになりました。人気のときだけ使われて、あとでポイじゃたまらないですもんね。以後の漱石の小説のほとんど(全部?)が「朝日新聞」に連載されたものです。 芥川龍之介も漱石にならってか、大阪新聞社の社員(出勤の義務がない書くだけの社員)になる算段がついてから横須賀の海軍機関学校の教授職を辞したようです。
作品がベストセラーになったり、新聞連載されたり(一回の新聞連載で家が一軒建った時代があった?)、「 徳富蘆花はベストセラー作家ですが、大旅行はするわ、多額の寄付はするわ(教会に9年間で1万1,000円(公務員給与の157ヶ月分)も献金したとか。T教会ではあらず)で、通帳の繰越額はいつもわずかだったそうです。 吉屋信子は新潮社の円本「現代長編小説全集」の作家に選ばれたことから転がり込んだ印税2万円を海外見聞に注ぎ込んでいます。当時の2万円は現在の3,500万円ほどでしょうか?作家たるものいいものを書いて残すのが人生の目標でしょうから、作品の肥やしになるのならなんでもやるし、生きて書けるだけのお金があれば十分と考える人も多いことでしょう。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |