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昭和22年1月15日(1947年。 東京新宿の映画館「帝都座(現在、デパート「新宿マルイ 本館」(新宿区新宿三丁目30-13 map→)があるあたりにあった)の5階の小劇場で、「本邦初の本格的ヌードショウ」が催されました。敗戦から約1年半。これもまた新しい時代の1ページ。 「ヌードショウ」といっても、『ヴィナスの誕生』というヴァラエティショーのほんの一場面で、長くても30秒ほど。名画に扮して、額縁の前に上半身裸の女性が立つというもので「額縁ショウ」 と呼ばれます。 「これは芸術なので許してね」という作戦でしょうか。ショーには歌やコントやダンスもありましたが、やはりお目当ては「額縁ショウ」!? このショーを企画したのが、当地(東京都大田区山王一丁目)にいた秦 豊吉(当時55歳)です。 東宝の社長を補佐することもあった秦に、東宝が開設した帝都座5階の小劇場の企画が一任されたのです。
秦の来歴をみると、多面性が浮かび上がってきます。 帝大法科時代から独語習得に力を入れ、大学2年のとき訳したハウプトマンの『馭者ヘンシェル』が舞台協会の上演台本に採用され、4年のとき訳したゲーテの『若きエルテルの悲しみ(若きウェルテルの悩み)』が新潮社から出版され、独語翻訳家として活躍し始めます。大田黒元雄らの「音楽と文学」の同人でもありました。 ところが、大正6年(25歳)、帝大卒業後あっさりと、三菱商事の社員となって、実業の世界に入ります。3年後(大正9年。28歳)にはドイツのベルリン勤務となりました。 翻訳にしても、実業にしても、どちらかといえば“お堅い”世界ですが、そこで活躍していた人が「本邦初の本格的ヌードショウ」を企画したのです。 秦は丸木砂土(マルキ・ド・サドのもじり)という名で、“エッチな本”もたくさん書いています。『好色独逸女』、『女性西部戦線』(『西部戦線異常なし』のもじりか)、『夫婦愛し方読本』などなど。 秦のこの多面性は、柔軟でタフな性格と体力、旺盛な好奇心があってのものでしょうが、成り行き上そうなった面もあります。秦が渡った頃のベルリンは国際的な歓楽都市で、そこに6年半滞在し、日本からの客を遊び場に案内しているうちに“色の世界”にもすっかり詳しくなったとか。三菱商事を退社して東宝に転職したのが昭和8年(41歳)です。 周期的に別人格に入れ替わる人物が登場する『友田と松永の話』(『谷崎潤一郎(ちくま日本文学全集)』(Amazon→)に収録)という谷崎潤一郎の小説があります。秦がモデルではないかと推測されています(森 彰英氏)。
秦と一高で同期だった山本有三も、文学だけでなく、教育でも、政治でも活躍しました。山本の行った教育は今からしても相当斬新なものでしたし、戦後、山本が取り組んだ「国語の民主化」はかの時代にあって極めて
時代の要請といっても、狂歌三大家の一人の大田南畝が、突然別人のようになって幕臣として励むようになるのは、切迫した政治的な理由からでした。 多芸の人・平賀源内(植物学、地質学、医学、句作、戯作、、洋画、発明、焼き物、商売などに通じた)は好奇心の塊で、長崎に遊学して蘭学・医学・油絵・鉱山の採掘精錬技術を学び、湯島の聖堂に寄宿して儒学や漢学も学び、学ぶだけでなく極めて実践的でもありました。鉱床を発見・開発したり、産物や薬や絵暦の博覧会(展示会)をして商品を広めたり、ブローカー的な役割も果たしたりもしたようです。エレキテル(静電気発生装置)を復元したことでも有名です。浄瑠璃作家としても活躍しました(福内鬼外の名で書いた)。当地(東京都大田区)の新田神社にまつわる新田義興の伝承を脚色した『神霊矢口渡』が大ヒットし、当社の再興にも寄与したとのこと。当社の神職が源内に作品を依頼したという説もあります。源内が考案した当社の矢守を破魔矢の起源する説は、そこらへんの事情と関係しているのでしょうか。
北園克衛は詩人またはデザイナー・アーティストとして知られていますが、彼の名刺の肩書きには「ライブラリアン(図書館員)」とありました。昭和10年(33歳)、「日本歯科大学」(東京都千代田区富士見一丁目9-20 map→)の図書館に就職し、没年(昭和53年。75歳)まで勤め上げています。図書館長だったこともありました。食い扶持が確保できていたから、世に媚びることなく(売らんかなにならずに)、我が道を行けたのでしょうね。 宮沢賢治も、詩人・童話作家といった一面だけで語れる人ではありません。 様々な理由で、一時期、他の職業を掛け持った作家ならいくらでもいますが(夏目漱石、芥川龍之介、三島由紀夫、間宮茂輔などもそう)、石坂洋次郎は15年近くも女学校・旧制中学校(教え子に「むのたけじ」がいる)の教師をしながら書いていたし、井上 靖も15年間くらい大阪毎日新聞社に務めながら書いていました。小関智弘さんなどは、なんと51年間も旋盤工をしながら書いておられました。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |