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教育の試み(山本有三や宮沢賢治などの教育での試み)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

板書された地元の地質断面図の前に立つ宮沢賢治(大正14年。29歳頃) ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『宮沢賢治(新潮日本文学アルバム)』

秦豊吉

昭和7年3月17日(1932年。 河上 はじめ (52歳)が山本有三(44歳)あてに、依頼された明治大学文芸科の教授職を断る手紙を書いています。3月に新設された文芸科の科長に選ばれた山本は、様々な人に教授職を依頼、 河上もその一人でした。

満州事変後、民主主義に対する当局の弾圧が強まり、それに抵抗する一派が過激化していました。こういった「共産主義、怖〜い」の時代に、山本は教授陣にマルクス経済学の大御所の河上に声をかけたのです。勇気があります。「自由にやらせてもらう」 ことを条件に科長を引き受けたので、学校も何も言えなかったのでしょう。同年(昭和7年)河上は日本共産党に入党、翌昭和8年に検挙されます。山本も同年(昭和8年)、日本共産党に資金を提供した疑いで検挙されました小林多喜二の拷問死は翌昭和8年。全くひどい時代ですね?

山本の呼びかけで集まった教授陣は下の写真の通り。文壇のおもだった人を全て引っ張って来た感あり。ちょっとやり過ぎですね(笑)。体験や座談や見学を重視し、喫茶店で討論したり、歌舞伎、天文台、刑務所、サーカスなどを見学するなど、いろいろ面白いことをやったようです。

山本の呼びかけで集まった明治大学文芸科の面々。岸田國士、豊島与志雄、土屋文明、長与善郎、谷川徹三、高橋健二、小林秀雄、今 日出海、吉田甲子太郎、船橋聖一、 阿部知二、辰野 隆、 獅子文六の顔がある。里見 弴、横光利一、久保田万太郎、萩原朔太郎も参加したようだ ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『山本有三(新潮日本文学アルバム)』
山本の呼びかけで集まった明治大学文芸科の面々。岸田國士、豊島与志雄、土屋文明、長与善郎、谷川徹三、高橋健二、小林秀雄、今 日出海、吉田甲子太郎、船橋聖一、 阿部知二、辰野 隆、 獅子文六の顔がある。里見 弴横光利一、久保田万太郎、萩原朔太郎も参加したようだ ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『山本有三(新潮日本文学アルバム)』

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宮沢賢治

宮沢賢治は大正10年(24歳)「花巻農学校」(「稗貫ひえぬき 農学校」という名だった。現・「(岩手県立)花巻農業高等学校」(岩手県花巻市 くず 第1地割68番地 Map→))の教諭になり、大正15年(29歳)まで、代数、化学、英語、農業、土壌などを教えています。その5年は「じつに愉快な明るいもの」だったようで、生徒をつれて岩手山に登ったり、自作の童話を読み聞かせたり、自作の戯曲を生徒と上演、上演後グランドで大道具小道具を燃やして生徒らと踊り狂ったり、教え子の就職のために樺太まで足を伸ばしたり・・・、感情に訴える教育を実践しました。

モース

明治10年来日したモース(38歳)も、発足してまもない東京大学理学部生物学科の教壇に立っています。日本で(初めて?)本格的に進化論を論じたのがモースです。また、専門知識を持った外国人教師の招聘が託され、日本の地球物理学の礎を作ったトマス・メンデンホールや、日本美術の紹介に努めた哲学者のアーネスト・フェノロサ(モースの活躍の場・米国マサチューセス州セイラム出身。岡倉天心、嘉納治五郎、坪内逍遥らはフェノロサの講義を受けた)などが招聘されました。モースは学内の教育改革にも貢献したのです。

モースは「悪筆」だったが(読めないほど字が汚なかった)、右手で字を書き、同時に左手で絵を描くことができた。23歳頃、右手が敗血症で使えなくなり、左手で絵を描く練習をした結果、習得した技 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典 : 『日本人種論争の幕あけ ~モースと大森貝塚~』(共立出版) モースは「悪筆」だったが(読めないほど字が汚なかった)、右手で字を書き、同時に左手で絵を描くことができた。23歳頃、右手が敗血症で使えなくなり、左手で絵を描く練習をした結果、習得した技 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典 : 『日本人種論争の幕あけ ~モースと大森貝塚~』(共立出版)

昭和53年の11月と12月の2ヶ月間、当地の「入新井いりあらい 第五小学校」(東京都大田区大森北六丁目4-8 Map→)に松本キミ子さん(38歳)が産休補助の教員として赴任(近所の田中魚店(今もあるでしょうか?)に下宿したとのこと)、「キミ子方式」を実践されています。

松本さんは芸大彫刻科を卒業後、モデルやトラックの運転手をしながら制作活動をしていました。昭和48年(33歳)、都内の小中学校の臨時教諭になって目の当たりにしたのは、子どもたちが絵を描くことを好まないという現実。写生は「見て発見したことを表現する」、基本、楽しいことのはずですが、子どもたちは概してそれを好まない。教師は「さあ、自由にのびのびと描きましょう!」とか言いますが、子どもたちはどうしていいか分かりません。お絵描き教室に通っていたり、教師の好みを「忖度」するのが得意な子たちの 独壇場 どくだんじょう 。みんなが写生を楽むにはどうすればいいだろう? と、試行錯誤しながら、ユニークな描画法が編み出されていきました。

まずは、「線(輪郭線)」から解放されること。線はこの世に存在しない訳で(線も「面」(面積を持つ)、だから目に見える)、対象と背景の間に感じているだけという代物。だから、対象の内側の「色」に注意を払わせます。

「色」は、三原色(赤・青・黄)と白の絵の具だけで作らせます。絵の具の数があると、対象をさして見もしないで、空はこの水色、地面はこの茶色とやりがち。三原色と白しか使えないとなると混色せざるをえず、対象の微妙な「色」の変化に注意が向いていきます。

あと、理にかなったやり方で筆を動かす。植物ならその成長する方向に、動物なら撫でてあげたい方向に。植物の細かい根っこを描くときは「プルプル」といった感じに“対象の身”になって描きます。

モヤシにしてもイカにしても熟視してゆっくり描くので、描き終わる頃には愛着が沸いています。フライパンを描かせる時は、フライパンにまつわるエピソードを家の人から聞いてくるのが宿題。道端の植物を取って来させて描かせることも。じっくり見ると、どんなモノにも固有のその美しさがあるのに気がつきます。

輪郭線で全体の形を取らないので、大きくなったり、小さくなったり。そんな時は、画用紙を継ぎ足したり、余白をカットしたり。画用紙に絵を合わせるのではなく、絵に画用紙を合わせるのです。掲示板には大小様々な絵が様々な方向に貼られることとなり、その“カオス”が、子どもや教師を「自由」にする。松本さんは描き方をある意味「強制」します(学校でなされることはほとんどが「強制」?)、でも結果「自由」になれるという不思議。

「キミ子方式」だとどの子も“上手く”描けるので、順序づけ(相対評価)できません。「キミ子方式」がおかしいのではなく、順序づけが前提の教育がおかしいのですよね?

三原色

当地の「六郷小学校」(東京都大田区東六郷三丁目7-1 Map→)では、1960年代からの十数年間、教育はどうあるべきか、職員間で、時には保護者も巻き込んで討論されました。子どもを管理の対象と考えるとき、教師もより上位の権力の管理下にある。「それが公教育」というのなら話はそこまで。で、教師やってて面白いの? 子どもも楽しいの?「評価」は人を縛る(管理する)道具でもあります(褒めるにしても貶すにしても)。六郷小学校では、多くの学校が五段階相対評価(「あゆみ」)の通信簿を出していた時代、子どもに通信簿を出さない教師が4名いたとか! 強者つわもの

高橋 勉『六郷小学校通信簿(反教育シリーズ)』(現代書館)。教育の根本に向き合い、果敢に実践した教師たちがいた 鳥山敏子『いのちに触れる〜生と性と死の授業〜』(太郎次郎社エディタス)。教室でブタを飼い、それをさばいて皆で食する。衝撃の教育実践
高橋 勉『六郷小学校通信簿(反教育シリーズ)』(現代書館)。教育の根本に向き合い、果敢に実践した教師たちがいた 鳥山敏子『いのちに触れる〜生と性と死の授業〜』(太郎次郎社エディタス)。教室でブタを飼い、それをさばいて皆で食する。衝撃の教育実践
渡辺 敏『一壜百験(近易物理 )』(普及社)。明治時代にこんなにも面白い教育実践があった。“ 敏(ビン) ”先生が取り出したるは一つの“ 壜(ビン) ”。さてさて、どんな自然の不思議が立ち現れるやら! 松本キミ子、堀江晴美『絵のかけない子は私の教師』(仮説社)。「キミ子方式」を通しての教師と子どもたちとの格闘。当地の「入新井第五小学校」での実践記録も
渡辺 敏『一壜百験(近易物理 )』(普及社)。明治時代にこんなにも面白い教育実践があった。“ ビン ”先生が取り出したるは一つの“ ビン ”。さてさて、どんな自然の不思議が立ち現れるやら! 松本キミ子、堀江晴美『絵のかけない子は私の教師』(仮説社)。「キミ子方式」を通しての教師と子どもたちとの格闘。当地の「入新井第五小学校」での実践記録も

■ 馬込文学マラソン:
萩原朔太郎の『月に吠える』を読む→

■ 参考文献:
●『山本有三(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年発行)P.44-45、年譜(作成:永野 賢) ●『宮沢賢治(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年初版発行 昭和61年5刷参照)P.106-107 ●『私たちのモース』(編集・発行:東京都大田区郷土博物館 平成2年発行)P.9、P.20、P.26-27、P.42-44、P.48、P.63 ●『絵のかけない子は私の教師』(松本キミ子 仮説社 昭和57年初版発行 平成4年発行13刷)P.124-125

※当ページの最終修正年月日
2024.3.17

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