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大正14年8月12日(1925年。
北原白秋(40歳)が、
歌友の
船旅は陽気そのもので、その紀行文『フレップ・トリップ(Amazon→ 青空文庫→)』(フレップもトリップも樺太に生える潅木。前者の赤い実、後者の黒い実はともに酒の原料)には、
心は安く、気はかろし、揺れ揺れ、帆綱よ、空高く・・・
と、軽やかな文句が随所に飛び出します。
この8月12日は、乗船して初めての曇天で、船の右にえんえんと黒々としたトドマツの丘陵が
・・・これまで、私たちはあまりに恵まれた航海を楽み過ぎて来た。少しくらいは時化にでも
と呑気です。そして、時化になり、
・・・終夜が波の響と風の音と、それに雑多の ──それは
とたいへんですが、
「おやおや。」と私は思った。だが、いつのまにかぐっすりと眠入ってしまった・・・
と、やはり呑気です(笑)。南方(福岡県
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| 船上の白秋 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『フレップ・トリップ(岩波文庫)』 | 現地の人たちと ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『フレップ・トリップ(岩波文庫)』 |
昔、樺太には
日露の初の条約「日露和親条約」(「日魯通好条約」などとも。1855年。黒船来航の2年後)で、樺太を日露両国民の混住の地と定められますが、明治8年の「樺太・千島交換条約」で、日本はその領有権を放棄してロシア領となります(代わりに日本は千島列島の領有権を得る)が、日露戦争(明治27-28年)で日本が侵攻、「ポーツマス条約」によって、北緯50度線以南の南樺太が日本領になりました。
「ロシア革命」の機運の中、大正7-11年、連合国がロシアに派兵して干渉。日本も7万人以上の兵を送りました(「シベリア出兵」)。大正9年には、日本が占領した
大正12年には北海道の稚内と樺太の大泊をつなぐ連絡船ができ、早々に同年(大正12年。白秋より2年早い)に宮沢賢治(26歳。農学校生徒の就職依頼のため。南樺太は栄えていた)が、林 芙美子も昭和9年(30歳)に樺太を訪れています。女優・岡田嘉子が、演出家の杉本良吉と、ソ連(現・ロシア)への亡命を試み、吹雪の樺太北緯50度線を越したのが昭和13年。
その後、日本が「ポツダム宣言」を受諾する5日前(昭和20年8月9日。米国が長崎に原爆を落とした日)、ソ連(現・ロシア)が「日ソ中立条約」を一方的に破棄して南樺太に侵攻(米英が勧めた)。昭和天皇の「
「サンフランシスコ講和条約」で日本が領有権を放棄した南樺太は、今のところ領有権を主張する国はないようですが、現在ロシアが実効支配しています。ソ連のゴルバチョフ政権のとき(昭和64年)、南樺太への外国人の立ち入りが許可され、稚内からの船も再開(飛行機でも渡航可)、ビザなしで3日間滞在できるとのこと。平成13年、ユジノサハリンスク(豊原)に日本領事館(Site→)も開設されました。
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| チェーホフ『サハリン島』(中央公論新社)。「樺太千島交換条約」(明治8年)後、全島がロシア領だった時代、樺太は流刑地だった。詳細なレポート | 梯 久美子『サガレン 〜樺太/サハリン 境界を旅する〜』(KADOKAWA)。賢治は樺太の何に惹かれたのか? 彼の旅程をだどる中で見えてくるものは? |
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| 『樺太地上戦 〜終戦後7日間の悲劇〜(戦争の真実シリーズ2)』(KADOKAWA)。著:NHKスペシャル取材班 | 『サハリンを忘れない 〜日本人残留者たちの見果てぬ故郷、永い記憶〜』(DU BOOKS)。文・写真:後藤悠樹 |
■ 馬込文学マラソン:
・ 北原白秋の『桐の花』を読む→
■ 参考文献:
●『フレップ・トリップ(岩波文庫)』(北原白秋 平成19年発行)P.29、P.102-104、P.399 ●「尼港事件」(由井正臣)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録(コトバンク→)
■ 参考映像:
●「樺太地上戦 〜終戦後7日間の悲劇〜(NHKスペシャル)」
※当ページの最終修正年月日
2024.8.12