大正14年8月12日(1925年。
北原白秋(40歳)が、
樺太
(サハリン Map→)の西岸を航海していました。
歌友の吉植庄亮
のすすめで、2人して鉄道省主催の「樺太観光団」に加わったのです。8月7日に横浜 (Map→)を出港し、北海道の
小樽
(Map→)を経由し樺太の
本斗
(現・ネベリスク。上の地図の「H」Map→)に上陸するつもりが、
摂政宮(後の昭和天皇)が戦艦「
長門」で(!)行幸しており、上陸を諦めて、そのまま船を北に、南樺太の国境の安別
(現・ボシュニャコヴォ。上の地図の「A」Map→)まで進めました。その後西岸を南下し、
真岡
(現・ホルムスク。港町。上の地図の「M」Map→)、本斗と来て、内陸の
豊原
(現・ユジノサハリンスク。日本領だった南樺太の中心地。上の地図の「T」Map→)へ移動、
大泊
(現・コルサコフ。北海道への連絡船が出る。上の地図の「O」Map→)をへて、白秋が一番行きたかった
海豹島
(現・チュレーニー島。キタオットセイやトドの繁殖地。上の地図の「K」Map→)まで足を延ばしています。
船旅は陽気そのもので、その紀行文『フレップ・トリップ(Amazon→ 青空文庫→)』(フレップもトリップも樺太に生える潅木。前者の赤い実、後者の黒い実はともに酒の原料)には、
心は安く、気はかろし、揺れ揺れ、帆綱よ、空高く・・・
と、軽やかな文句が随所に飛び出します。
この8月12日は、乗船して初めての曇天で、船の右にえんえんと黒々としたトドマツの丘陵が
寂しく続き、時化
(海上が荒れること)もひどく、次の日も上陸できるか分からないと船員から告げられます。でも、白秋は、
・・・これまで、私たちはあまりに恵まれた航海を楽み過ぎて来た。少しくらいは時化にでも遭
った方が面白そう・・・
と呑気です。そして、時化になり、
・・・終夜が波の響と風の音と、それに雑多の ──それは帆檣に降る、船室の屋根の上甲板に降る、吊ボートに降る、下の甲板に降る、通風筒に吹きつける、欄干に降る、──雨の音であった。船の揺れはますます激しく、私のいわゆる王様のベッドの洋銀の欄干、網棚、カーテンの鐶
(カーテンがカーテンレールを移動するための輪っか)などは、しっきりなく音を立てて鳴った。
とたいへんですが、
「おやおや。」と私は思った。だが、いつのまにかぐっすりと眠入ってしまった・・・
と、やはり呑気です(笑)。南方(福岡県
柳川
)生まれの白秋は、北方に強い憧れを持っていました。また、3人目の妻との生活でようやく精神の安定期に入り(経済的にも安定した)、だから、時化くらいはなんのその。
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船上の白秋 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『フレップ・トリップ(岩波文庫)』 |
現地の人たちと ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『フレップ・トリップ(岩波文庫)』 |
昔、樺太には
続
縄文人(古墳時代ぐらいまで続いた縄文文化の流れを汲む人たち)やオホーツク文化人(海洋
漁猟
民族) などが住んでいましたが、鎌倉時代頃からアイヌや和人が進出。「樺太」の名は、アイヌ語の「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ (神が河口に造った島)」に由来するとされ、「河」はアムール川(
黒龍江
。上の地図の「a」)のようです。
日露の初の条約「日露和親条約」(「日魯通好条約」などとも。1855年。黒船来航の2年後)で、樺太を日露両国民の混住の地と定められますが、明治8年の「樺太・千島交換条約」で、日本はその領有権を放棄してロシア領となります(代わりに日本は千島列島の領有権を得る)が、日露戦争(明治27-28年)で日本が侵攻、「ポーツマス条約」によって、北緯50度線以南の南樺太が日本領になりました。
「ロシア革命」の機運の中、大正7-11年、連合国がロシアに派兵して干渉。日本も7万人以上の兵を送りました(「シベリア出兵」)。大正9年には、日本が占領した
尼港
(現・ニコラエフスク。上の地図の「n」。Map→)をロシアのパルチザン(非正規軍)が包囲、休戦協定が結ばれましたが、日本側が不法攻撃したため戦闘となり、結果、日本軍は全滅。将兵と居留民が捕虜になりますが、日本が尼港に救援隊を差し向けたことで、パルチザンは日本人捕虜と反革命ロシア人の全員を殺害してしまいます(「尼港事件」)。日本はその事件を理由に(日本が占領し、しかも不法攻撃したのですよね?)、北樺太を保障占領(条約履行を訴えての占領)しています。大正14年「日ソ基本条約」が締結され、日本は北樺太からは撤兵。白秋らが訪れたのはその約3ヶ月後です。300名もの名士が招待されたそうで、南樺太は日本のものであることを改めてアピールすることが主目的だったのではないでしょう。摂政宮が軍艦で訪れたのもそういった事情からでしょう。
大正12年には北海道の稚内と樺太の大泊をつなぐ連絡船ができ、早々に同年(大正12年。白秋より2年早い)に宮沢賢治(26歳。農学校生徒の就職依頼のため。南樺太は栄えていた)が、林 芙美子も昭和9年(30歳)に樺太を訪れています。女優・岡田嘉子が、演出家の杉本良吉と、ソ連(現・ロシア)への亡命を試み、吹雪の樺太北緯50度線を越したのが昭和13年。
その後、日本が「ポツダム宣言」を受諾する5日前(昭和20年8月9日。米国が長崎に原爆を落とした日)、ソ連(現・ロシア)が「日ソ中立条約」を一方的に破棄して南樺太に侵攻(米英が勧めた)。昭和天皇の「
玉音
放送」があった翌日(8月16日)、悠然と鼻歌交じりで樺太に上陸して来たソ連兵に日本兵が一斉射撃を加えたことで、ソ連兵が攻撃を再開、日本側にとっては絶望的な「地上戦」が展開されます。大本営は8月15日以後の戦闘の即時停止を命じたのに、札幌の第五方面軍が「樺太を死守せよ」との命令を出ていたのです。この“終戦後”の「地上戦」で、5,000人以上の樺太在住の人たちが命を落としました。その多くが民間人です。日本では捕虜になることを戒められていたので多くの人が自死しています(家族を道ずれにしたケースも)。
「サンフランシスコ講和条約」で日本が領有権を放棄した南樺太は、今のところ領有権を主張する国はないようですが、現在ロシアが実効支配しています。ソ連のゴルバチョフ政権のとき(昭和64年)、南樺太への外国人の立ち入りが許可され、稚内からの船も再開(飛行機でも渡航可)、ビザなしで3日間滞在できるとのこと。平成13年、ユジノサハリンスク(豊原)に日本領事館(Site→)も開設されました。
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チェーホフ『サハリン島』(中央公論新社)。「樺太千島交換条約」(明治8年)後、全島がロシア領だった時代、樺太は流刑地だった。詳細なレポート |
梯 久美子『サガレン 〜樺太/サハリン 境界を旅する〜』(KADOKAWA)。賢治は樺太の何に惹かれたのか? 彼の旅程をだどる中で見えてくるものは? |
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『樺太地上戦 〜終戦後7日間の悲劇〜(戦争の真実シリーズ2)』(KADOKAWA)。著:NHKスペシャル取材班 |
『サハリンを忘れない 〜日本人残留者たちの見果てぬ故郷、永い記憶〜』(DU BOOKS)。文・写真:後藤悠樹 |
■ 馬込文学マラソン:
・ 北原白秋の『桐の花』を読む→
■ 参考文献:
●『フレップ・トリップ(岩波文庫)』(北原白秋 平成19年発行)P.29、P.102-104、P.399 ●「尼港事件」(由井正臣)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録(コトバンク→)
■ 参考映像:
●「樺太地上戦 〜終戦後7日間の悲劇〜(NHKスペシャル)」
※当ページの最終修正年月日
2024.8.12
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