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映画「詩人の血」(監督・脚本:ジャン・コクトー、昭和6年公開)の一場面から構成 ※「パブリックドメインの映画(根拠→)」を使用 昭和41年2月9日(1966年。 三島由紀夫(41歳)の映画論「世界前衛映画祭を見て ──『詩人の血』」が「朝日新聞」に掲載されました。 映画祭全体を評したあと後半で、ジャン・コクトーの映画「詩人の血」について書いています。コクトーは生涯に6本映画を撮っていますが、その中で一番「純粋」(俗でない)作品と三島は書いています。
「詩人の血」はその36年前(昭和5年)に撮られた、詩人・ジャン・コクトー(41歳)の初の映画です(公開は翌昭和6年。51分)。前衛芸術の庇護者・ノアイユ子爵から100万フランの提供を受けて作製されました。 コクトーは映画にこだわりがあり、自身の作品を「シネマ(映画)」とは呼ばずに、より根源的な「シネマトグラフ」としました。ドラマ性を打ち出した「シネマ」ではなく、彼にとっての映画は“詩”だったのです。「詩人の血」の冒頭の献辞(ピサネロ(1395?-1455? wik→)などの画家に捧げられている)で、自身の「映画」(シネマトグラフ、詩)を簡潔に表現しています。 詩は紋章、解読を要する、紋章をかたどる斧、一角獣、空想の鳥、星、青い地面、それらのためにどれほどの血と涙が流されたことか・・・ 「詩」の定義は百人百様でしょうが、コクトーにとっての「詩」は(つまりはこの映画も)、イメージとイメージが絡まり合う「紋章」のようなもので、その「解読」が必要なようです。献辞の前に一瞬映る顔を石膏のようなもので覆った人物はコクトーで、この映画の主人公の詩人(演:エンリケ・リベロ。チリの舞踏家)は、コクトー自身でもあるのでしょう。 献辞の後の第1話冒頭で、巨大な煙突が崩壊し始める映像が映ります。この映像の続きが最終話(第4話)の終結部に出てきて、そこでは煙を立てて崩れ落ちる。この映画が描いた物語が、実は、煙突が崩れ始めてから崩れ落ちるまでの瞬時に展開されたと示唆しているのでしょうか。
第1話は「傷ついた手 あるいは詩人の体の傷痕」というタイトルで、フォントノワの戦い(1745年)の砲声が聞こえる中、詩人が木炭か何かで人物の絵を描いています。目鼻が描かれた頃、来客がありますが、見ると描いた人物の口が動いています。慌てて口を消す詩人。驚き去る客人。詩人の手に絵の人物の口が乗り移っていたからです。その「口」を持て余した詩人が部屋の彫像に「口」を擦りつけると、今度は彫像に「口」が乗り移って、彫像が語り始めます。ここで重要なのは「傷」のイメージ。元々、詩人の背中にも大きな傷があり、その傷が詩人に絵を描かせ(“詩”を書かせ)、その傷が「口」となって勝手に話し、“詩”が生まれるのでしょうか?
手から「口」(傷)が消えて詩人は喜びますが、彫像が言います。「そんなにあっさり傷(口)がなくなるかしら?」と。そして、部屋から逃れようとする詩人に(部屋は出入口が失われている。鏡だけがある)、彫像が面白いことを言います。 鏡の中に入るのです、あきれた人だこと、あなたでしょう、鏡の中に入ると書いたのは、信じてもないくせに・・・おやりなさい、とにかく、おやりなさい・・・さあ・・・さあ と。詩人は「鏡」(おそらく詩人が比喩として書いた鏡)の中に飛び込みます。鏡の中の奈落の底はホテル「フォリ・ドラマティーク(劇的な狂気)」で、その廊下に飛び出た詩人は、並ぶドアの鍵穴から、一つ一つ部屋の中を覗いていきます。そこで展開されているのは、詩人の心の中なのでしょうか・・・と、続いていきます。
上に書いたように三島が「詩人の血」を見たのは41歳(昭和41年)になってからですが、28歳(昭和28年)の時すでに「ジャン・コクトオと映画」という一文で同作に言及しています。その頃は「イメージの錯乱状態」「映画をおもちゃにしすぎている」とあまり評価していませんでしたが、13年後に実際に見て書いた「世界前衛映画祭を見て ──『詩人の血』」では同作を「傑作」とし評価を一変させています。 フランス文学は明治11年の川島忠之助によるヴェルヌの『八十日間世界一周』の日本語訳の出版を皮切りに日本人にも読まれるようになり、明治22年に設立した帝大仏文科は、フランス文学の紹介者を輩出。『月下の一群』(訳:堀口大学。大正14年発行)、『巴里の憂鬱』(ボードレール。訳:三好達治。昭和4年発行)、『ランボオ詩集』(訳:中原中也。昭和8年発行)などによってフランス詩も読まれるようになってきました。 三島も少年期より堀口訳のラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』(Amazon→)を愛読しました(ラディゲはこの小説を書いて20歳で死去。25〜26歳ごろの堀 辰雄を驚愕させた一冊でもある)。そして、昭和30年(三島30歳)には『ラディゲの死』(Amazon→)を上梓。ラディゲの死ぬまでの2ヶ月間のコクトーとの共同生活について書かれています。コクトーはラディゲの死のショックから10年ばかりアヘン中毒になったとのこと。 昭和35年(35歳)、三島はコクトーに会っています。コクトーの戯曲「影絵」の主役を岸 恵子さんが務めることとなり、その舞台稽古に駆けつけたようです。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ■ 参考映像: ※当ページの最終修正年月日 |