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中原中也の「お会式の夜」を読む(中也の音世界)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中也は「お会式の夜」という詩稿を残した。

十月の十二日、池上の本門寺、
東京はその夜、電車の終夜運転、
来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとほす、
太鼓の音の、絶えないその夜を。

来る年にも、来る年にも、その夜はえてして風が吹く。
吐く息は、一年の、その夜頃から白くなる。
遠くや近くで、太鼓の音は鳴つてゐて、
頭上に、月は、あらはれてゐる。

何か変だ。 お会式といえば、いくつもの万灯が練り歩き、数十万人もの参拝者でにぎわうが、その目映さが感じられない。目に映るのは、自分が吐く息と、頭上の月ばかり、あとはひたすら音の世界。 中也は闇の中、自身のイメージの中を歩いているんだろうか。続けて、

その時だ僕がなんといふことはなく
落漠らくばくたる自分の過去をおもひみるのは
まとめてみようといふのではなく、
吹く風と、月の光にほの かに自分を思んみるのは。

  思へば僕も年をとつた。
  辛いことであつた。
  それだけのことであつた。
  ── 夜が明けたら家に帰つて寝るまでのこと。

意識は過去へ向い、一人さまよい、

十月の十二日、池上の本門寺、
東京はその夜、電車の終夜運転、
来る年も、来る年も、私はその夜を歩きとほす、
太鼓の音の、絶えないその夜を。(1932.10.15)

と、もう、実際のお会式はどこにもなく、音の世界に完結する。

音楽評論家の吉田秀和は、中也ほど音楽を深く理解した人を知らないと語った。音楽全般に詳しかったということではあるまい。音表現の鋭さ・ユニークさを言ったのだろうか。たしかに、中也の詩でしばしば、印象的な“音”に出会う。サーカス小屋の虚空をブランコが、

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

と揺れていたり(「サーカス」)、船出を知らせる月が、

ポッカリ

と出たり(「湖上」)、

流れる清水のやうに泣く

坊やは「人間の根源的な悲しみ」を泣いているようでもあり(「坊や」)、

あゝ おまへはなにをして来たのだと……

故郷の風に声を聴き(「帰郷」)、 月の光に“無音”を聞く(「月の光は音もなし」)・・・

どうせ一人の人(詩人)を理解しつくせる訳もないのだから、とりあえずは、中也の“音”をたどってみようと思っている。


「お会式の夜」について

『中原中也全詩集(角川ソフィア文庫)』。「お会式の夜」を収録
中原中也全詩集(角川ソフィア文庫)』。「お会式の夜」を収録

当地(東京都大田区)の名物・本門寺のお会式を題材にした中原中也の詩。草稿の状態で生前発表されていない。中也は昭和7年8月から翌昭和8年12月頃まで当地に住み、その期間に書かれた(昭和7年10月15日。25歳)。


中原中也について

明治40年、 湯田ゆだ 温泉の軍医の家(山口県山口市湯田温泉一丁目11-23 map→ ※近くに「中原中也記念館」HP→がある)で生まれる。6人兄弟の長男。中原家は、日本のカトリックの中心人物・ビリオン神父と親交があった。中也が生涯、“神”を想ったのは、こういった家庭環境の影響もあろう。

すぐ下の弟の亜郎つぐろう中也が7歳の時病没。その時作った詩が最初の詩といわれる。神童と呼ばれたが、文学に熱中し成績が低迷、大正12年(16歳)、中学を落第する。立命館中学に通うため京都に住まう。京都時代、高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』の数編に感動、女優の長谷川 泰子やすこ と同棲し、富永太郎とも出会った。

当地(東京都大田区)に住んだ頃(昭和7年。25歳頃。下の「中原中也と馬込文学圏」を参照)、最初の詩集『 山羊 やぎ の歌』を出すべく奔走するが、予約者が集らず、また引き受ける出版社もなく難航。2年後の昭和9年(27歳)にようやく刊行される。その頃、親友の 高森文夫 たかもり・ふみお の従妹や、東京京橋の飲み屋 「ウィンゾア」 の売れっ子女給・坂本 睦子 むつこ に結婚を申し込むもはかばかしくなく、痛飲の日々を送る。幻聴が聞こえるなどノイローゼ症状もあったようだ。

昭和8年(26歳)に遠縁の上野孝子と結婚し、翌年、長男・文也が誕生。デカダンな中也にもようやく平穏な日々が訪れるが、翌々年の昭和11年、文也が病没、激しい精神錯乱に陥り、入院。

同年(昭和8年)、太宰 治が創刊した文芸誌「青い花」に、檀 一雄らと参加するが、太宰とぶつかり1号での休刊の原因ともなる。檀の自伝的小説『火宅の人』Amazon→を原作にした映画「火宅の人」Amazon→に出てくる中也の凄まじさたるや(中也を真田広之さんが演じている)。

退院後、鎌倉の寿福寺(神奈川県鎌倉市扇ガ谷一丁目17-7 map→)裏へ。各地を転々とさまよったが、終の住処となる。鎌倉の大町教会(現・カトリック由比ガ浜教会(鎌倉市由比ガ浜一丁目10-35 map→)のジョリー神父を訪ねたり、「また来ん春……」「冬の長門峡」「春日狂想」を発表、 『ランボオ詩集』 を刊行、 『在りし日の歌』の編集・清書も行う(生きているうちに刊行できなかった)。

昭和10年、親友(恋敵でもあった?)の小林秀雄が「文学界」の編集責任者となり、発表の場となる。草野心平らと詩誌「歴程」を創刊するのもこの年。

翌昭和12年10月、結核性脳膜炎を発病。 鎌倉の「清川病院」(神奈川県鎌倉市小町二丁目13-7 map→)に運び込まれたが、母親、弟、河上徹太郎が駆けつけた時には、意識がなかった。 一瞬正気に戻って言った最後の言葉が「本当は孝行者だったんですよ」。 破天荒に生きた子が、死の淵で絞りだした懺悔だろうか。 10月22日(30歳)死去。

中原中也 評:
・「何処かでねずみ でも死ぬ様に死んだ。 時代病や政治病の患者等が充満してゐるなかで、孤独病を患つて死ぬのには、どのくらゐの抒情の深さが必要であつたか」(小林秀雄

『中原中也 〜 魂の詩人〜(「別冊太陽」) 』(平凡社)。監修:佐々木幹郎 佐々木幹郎『中原中也 〜沈黙の音楽〜 (岩波新書)』。平成29年発行
中原中也 〜魂の詩人〜(「別冊太陽」) 』(平凡社)。監修:佐々木幹郎 佐々木幹郎『中原中也 〜沈黙の音楽〜 (岩波新書)』。平成29年発行

中原中也と馬込文学圏

昭和7年8月28日(25歳)より、当地(東京都大田区北千束二丁目44 map→)の 高森文夫たかもり・ふみお (22歳)の伯母のアパートの2階に住む。高森が、空き部屋のことをうっかり中也に話してしまい、一緒に住むはめに。高森の弟の淳夫も住んだ。

東京外国語学校専修科を終了し、吉田秀和など近所の学生にフランス語を教える。高森と吉田は成城高校の1年違いで同居していた。翌昭和8年12月(26歳)、結婚を機に当地を離れ、花園アパート(東京の四谷区花園町)に移転する。北千束時代は14ヶ月ほどか。

この時代、当地に材を求めたと思われる、上で紹介した「お会式の夜」、「京浜街道にて」などを書いている。

作家別馬込文学圏地図 「中原中也」→


参考文献

●『中原中也全詩集(角川ソフィア文庫)』(平成19年初版発行 平成20年3版参照)P..568-569、P.792-795  ●『中原中也(新潮日本文学アルバム)』(昭和60年発行)P.40-48、P.65-96、P.105-108 ●『断髪のモダンガール(文春文庫)』(森 まゆみ 平成22年発行)P.70-77 ●「97歳 音楽批評への挑戦 吉田秀和さん 「永遠の故郷」完結」(「朝日新聞」 朝刊 平成23年1月17日)

参考サイト

●東京紅團/・中原中也の世界を巡る/続 中原中也の東京を歩く→ ・続々 中原中也の東京を歩く→ ●名曲名演随筆/「中原中也の目」 〜吉田秀和 「音楽展望」を読む〜→

※当ページの最終修正年月日
2021.4.15

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