中原中也 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『中原中也(新潮日本文学アルバム)』
昭和7年8月28日(1932年。
中原中也(25歳)が、当地(東京都大田区北千束
二丁目44 Map→)の
高森文夫
(22)の伯母のアパートに越してきました。部屋が空いているので来てくれと頼まれた高森が、中也にうっかり話してしまい、中也は自分も住むときかなかったようです。中也は何かと人に食ってかかりますが、極度の寂しがり屋でした。部屋が3つあり、高森と彼の弟と中也が住むことになります。
北千束時代の中也は、『
山羊
の歌』を出版すべく奔走したあげくに挫折、高森の従妹に結婚を申し込みそちらもはかばかしくなく、痛飲の日々。幻聴などノイローゼの症状も現れ、腎臓炎も患いました。 東京京橋の文壇バー「ウィンゾア」の売れっ子ホステス・坂本
睦子
に求婚しそれも断られ、東京外国語学校専修科を終了後、近所の学生に仏語を教え(吉田秀和が中也に仏語を習ったのはこの頃か)、ランボーを翻訳し、小説『亡弟』(青空文庫→)を書き(前年(昭和6年)、弟の
恰三
が病没)、翌年(昭和8年)12月、遠縁の上野孝子と郷里山口で結婚式を挙げるまで当地にいました。14ヶ月ほどの彼の北千束時代はまるで怒濤のよう。
中也の転居回数は半端でないです。
山口県湯田
温泉に生まれた後、旅順→広島→金沢→京都の6カ所→東京(早稲田鶴巻町など13カ所)を経て、当地(東京都大田区北千束)に来ました。
北千束の後は、「花園アパート」(小林秀雄も居住。三好達治、大岡昇平なども集い「青山学院」と呼ばれた。現在は「トヨタ」のビル(東京都新宿区新宿一丁目27 Map→)が建っている 現況→ 案内板→)、市ケ谷谷町、千葉市の中村
古峡
(漱石門下の小説家、精神科医)の精神科の病院に入院し、退院後に住んだのが鎌倉寿福寺裏(鎌倉扇ヶ谷 Map→)。そこが、「終の住処」となりました。30年ほどの人生で30回ほど住まいをかえたことになります。
転居にはさまざまな理由があるでしょうが、“不定形な魂”に目覚めると、一カ所には居られないものかもしれません。
北原白秋も、明治37年(19歳)故郷の九州柳川をあとにして、昭和2年(42歳)、当地(東京都大田区東馬込二丁目18-6 Map→)に住むまでに、東京(高田馬場、神楽坂など11カ所)→小田原→東京(「
新富座
」裏など3カ所)→神奈川県三崎(「異人館」→見桃寺)→小笠原父島→麻布十番→千葉県東葛飾→南葛飾→動坂→小田原(十字お花畑と「木菟の家」)→東京天王寺墓畔と転々としています。
昭和2年(42歳)、当地に1年ほど住んだあと、東京世田谷若林→砧村(山野→成城南)と転居し、昭和15年4月(55歳)、杉並区阿佐ヶ谷に移転、そこが「終の住処」となりました。57年の人生で、やはり30回ほど転居しています。
白秋の場合は、実家の破産で生じた問題が長男の白秋の背にのしかかり、それらの関係者から身を隠す目的もあったとか。結婚も3回しています。持ち家は、小田原時代の「木菟の家」のみで、あとは全て借家だったようです。
辻 潤も徹底して「さすらい人」でした。彼の場合はほとんどが居候です。
浅草に生まれ、父の仕事の関係で三重県津に移転、その後東京に戻り、神田佐久間町など7カ所、上野寛永寺の一室に住み、伊藤野枝と別れたあとは、東京(早稲田大学裏など5カ所)→比叡山の宿坊→東京(上落合の妹の家など)→佐藤惣之助の紹介で川崎→千葉白浜の宮崎
資夫
の家→大阪、広島、九州、四国をさまよい、大正13年(39歳)、当地の松竹蒲田撮影場(「大田区民ホール・アプリコ」(東京都大田区蒲田五丁目37-3 Map→)あたりにあった)近くの長屋に落ち着きます。そこには母も息子の辻まことも住みました。戸締まりをせず真夜中でも来客を拒まなかったので 「カマタホテル」と呼ばれます。ここには4年ほど。室伏高信、中原中也の来訪もあったもよう。
昭和3年はほとんどパリで過ごし、帰国後も、大岡山、中延、洗足、碑文谷など当地(東京都大田区)とその近辺を転々。脳神経系の病院を入退院しつつ、伊勢の津、名古屋、能登、大島、石巻、湯河原、愛人の松尾としがいる九州の佐賀などを放浪。招かれることもあれば、押し掛けのようなこともあったようです。家に帰ったら辻がいた、ということもあったとか(笑 ※笑い事ではないが)。
面白いことに、元妻の
清のところ(
玉生
家)にも、辻は居候しています。再婚して夫もいるのにです。自由なんだか、ハチャメチャなんだか、ともかく、彼らの行動を常識で測るのは難しそうです。辻は人を呼ぶ人で、この驚異的居候期間も、高橋新吉(33歳)、佐藤朝山(46歳)、般若心経を読みながら現れる大津癇山坊、旋盤工の玄ちゃんなどが訪れて賑やかだったようです。玉生夫妻もガスも電気も止められ、暗闇で子にお乳をあげるという貧しさのどん底でしたが、清は当時を回想して 「あの頃はよかったなあ、まさに桃源」と書いています。辻の居候をぜんぜん苦にしていません。歓迎しているくらいです。おそるべき人たち・・・。
昭和10年(51歳)には、息子のまことがいる当地の「霜田アパート(東京都大田区南馬込三丁目)」に、愛人の松尾としと居ついています。借家を追い出された先の玉生夫妻(清と夫)までが転がり込みます! 我慢の限度を超えた家主のまことは、一人荷物をまとめて出て行ったそうな。気の毒なことです・・・。
その後、しばらくは当地の下宿屋「東館(東京都大田区南馬込二丁目)」で暮らし、また放浪、昭和14年(56歳)、再びまことのアパート(東京都大田区山王四丁目26 Map→)へ。
この頃、尺八片手にひんぱんに門付けしたようです。 奇行が目立ち、大森警察署に保護され、まことの友人の竹久不二彦
(竹久夢二の次男。まことと同じ山王四丁目のアパートにいた。まことの娘の
野生を養女にする。野生は辻の実の孫であり夢二の孫でもある)がもらい受けにいったことも。このアパートには、昭和11年頃、幸田 文(当時33歳)とその子の青木 玉(当時6歳)も1年ちょっと住んだようです。
そんなこんなで、辻もざっと50~60カ所はさすらったもよう。
上には上があるもので、葛飾北斎は90年の人生で93回引っ越したそうです。1日に3回引っ越ししたこともあるとかで、ちょっと訳がわかりません(笑)。ベートーヴェンも56年の生涯に60〜80回引っ越ししたようです。
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長野浩典『放浪・廻遊民と日本の近代』(弦書房)。漂泊民から、国家管理を考える |
宮澤 優『放浪と土と文学と〜高木 護/松永伍一/谷川 雁
〜』(現代書館) |
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高木 護
『辻 潤 〜「個」に生きる〜 (たいまつ新書) 』。著者・高木(当地(東京都大田区)との関わりも深い)はある意味辻以上に凄まじい放浪人生を歩んだ。己の人生と辻の人生と |
江宮隆之『井上井月
伝説 』(河出書房新社)。長野県伊那谷を乞食をして歩いた俳人・井上井月(明治19年行き倒れて死去)。芥川龍之介らを驚愕させたその1,500句とは |
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■ 馬込文学マラソン:
・ 北原白秋の『桐の花』を読む→
・ 辻 潤の『絶望の書』を読む→
・ 辻 まことの『山の声』を読む→
・ 芥川龍之介の『魔術』を読む→
■ 参考文献:
●「「朝の歌」へ 〜大正15年-昭和7年〜」(秋山 駿)、「略年譜」(吉田凞生
)※『中原中也(新潮日本文学アルバム)』(昭和60年発行)P.84-96、P.104-108 ●『中原中也全詩集(角川ソフィア文庫)』(平成19年初版発行 平成20年発行3刷)P.794-795 ●「続 中原中也の東京を歩く」(Kanda)(東京紅團→) ●「続々 中原中也の東京を歩く」(Kanda)(東京紅團→) ● 『誰も語らなかった中原中也(PHP新書)』(福島泰樹 平成19年発行)P.141-143 ●「文壇の魔性・坂本睦子の華麗なる大物遍歴」(山内宏泰)※『新潮45』(平成18年2月号) ●「97歳 音楽批評への挑戦 吉田秀和さん「永遠の故郷」完結」(「朝日新聞(朝刊)」 平成23年1月17日) ●「高森文夫」(若山牧水記念文学館→) ●「安原喜弘宛の書簡」(中原中也・全詩アーカイブ→) ●「略年譜」(北原隆太郎)※『北原白秋(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年発行)P.104-108 ●『断髪のモダンガール(文春文庫)』(森 まゆみ 平成22年発行)P.70-77 ● 『辻 潤への愛 ~小島キヨの生涯~』(倉橋健一 創樹社 平成2年発行)P.171-198 ●『田端文士村(中公文庫)』(近藤富枝 昭和58年発行)P.155-156 ●「北斎はなぜ93回も引っ越しをしたのかという話」(日野原健司)(太田記念美術館→) ●「ベートーヴェンと引っ越し」(大井 駿)(「ONTOMO」(音楽之友社)→)
※当ページの最終修正年月日
2024.8.28
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