『平家物語』によると、元暦元年1月20日(1184年。
京都防衛の要衝・宇治川(「宇治川先陣之碑」京都府宇治市宇治塔川 宇治公園・中之島 Map→)で、政権を掌握した木曽義仲(31歳)の軍と、後白河法皇(56歳)の密命を受けて鎌倉から派遣された源 義経(25歳)の軍とが対峙します。
義経側の6万余騎が宇治川を渡り始めました。
その時、磨墨に乗る梶原
景季
(22歳)と、
生食
に乗る佐々木
高綱
(24歳)が、どちらが先に宇治川を渡るかで争ったとされています(「宇治川の先陣争い」)。
磨墨は磨った墨のように黒々とした美しい馬で、生食(「
池月
」とも)は生きている動物の肉をそのまま食べてしまうほど獰猛
な馬。2頭とも源 頼朝(36歳)が下賜した馬です。騎馬としては生食の方が優れていたのでしょう。景季も生食を望みましたが、頼朝は高綱に与えました。プライドを傷つけられた景季は、高綱と刺し違える覚悟までします。
高綱とて、生食を
貰
っておきながら先陣を切れなければ生きて戻れないとまで公言、必死でした。景季の怒りを知って「実は、生食は盗んで来たんだよ」とジョークを飛ばして景季の怒りを解き、宇治川の渡河が始まると、先行していた景季に「(馬の)
腹帯
の延びて見えそうぞ。
締
め
給
へ」と声をかけ、景季が馬から降りて
腹帯
を締め直しているすきに、ちゃかり先陣を果たします。口が上手くって小狡いですね。高綱が勝ったと言えるのでしょうか?
当地(東京都大田区馬込
)には、景季の乗った磨墨が、生まれ、そして没したという「磨墨伝説」が残っています。「
鐙坂
」(大田区南馬込四丁目 Map→ Photo→)は磨墨が鐙(馬に乗る人が足をかける部分)を落とした所とされ、「磨墨塚」(南馬込三丁目18-1 Map→ Photo→ ※明治33年、近所の方が私財で建てたそうだ)は磨墨の骨を埋めた所とされています。後北条氏の家臣の梶原氏が当地を領したことから、梶原景時も当地を領した(または「万福寺」(南馬込一丁目49-1 Map→)の創立者・檀家だった)という「梶原景時伝説」が生まれ、「馬込」という地名と相まって、景時の子の景季の馬・磨墨の伝説まで生まれたようです。
古来、馬は、軍用だけでなく、乗用、運搬用、農耕用、競技用、食用などに利用されてきました。世界的には6,000年ほど前(日本では縄文時代)から馬は家畜化されたようです。古墳時代の中・後期より馬を象った埴輪が数多く作られたことから、その頃日本は、大陸の騎馬民族の影響を受けたと推測できます。
氷河期の日本は、海水の下降からユーラシア大陸と地続きで馬も行き来したようですが、氷河期が終わって日本が島化、森林化が進んで馬は一旦絶滅したと推測されています。その後、古墳時代になって、軍用に朝鮮半島から輸入されたようです。
平安時代から武術の研鑽を目的に競馬が行われてきましたが、のちに娯楽化。日清・日露戦争後は軍馬の改良・育成を目的に競馬が推奨され、当地(東京都大田区)にも、明治39年(日露戦争終結の翌年)、「池上競馬場」が出来ます。1周1マイル(約1,600m)あり、横浜の「根岸競馬場」につぐ大きさでした。日本初の馬券販売を伴う洋式競馬場だったとか。
運営団体は東京競馬会で、会長は 加納久宜
(58歳)。加納は鹿児島県知事時代に鹿児島の馬生産を振興し、「鹿児島競馬」を盛り上げた実績がありました。明治36年知事を退官後は当地(東京都大田区山王三丁目31-21 Map→)に住んだので、当地に競馬を誘致しやすかったのでしょう。
馬券は、公務員の初任給が50円の時代、1枚5円。第1回目の競馬の4日間で85万円以上の売り上げがあったそうです。今でいえば30億円ほどでしょうか? この予想を遥かに越える競馬熱(賭博熱?)に当局は驚き、その弊害もさっそく考慮され、2年後の明治41年には馬券発売が禁止となり、さらに2年して明治43年には閉鎖。営業期間はわずか3年間ほどでした。
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「池上競馬場」の様子。当地の「徳持ポニー公園」(大田区池上六丁目30-12 Map→ Photo→)に競馬場跡の案内板がある。昭和8年の地図には競馬場跡がまだ記されていた(Photo→) ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『写真画報 2(3)』(博文館) |
当地には、現在の「羽田空港」(東京都大田区羽田空港 Map→)の敷地にも「羽田競馬場」(航空写真(photo→) 昭和9年発行の地図にある「羽田競馬場」(photo→))がありました。やはり1周1マイル(約1,600m)あり、当時、地方競馬で一番の売上があったとか。昭和2年に開設され、こちらは11年間ほど(昭和13年まで)営業されたようです。
昭和11年4月1日、幸田 文(33歳)が夫と娘(6歳)とともに、当地(東京都大田区山王四丁目26 Map→)のアパート(おそらく、辻 潤や辻 まことも住んだアパート)に越してきて、「クーミス」(モンゴルなどで作られる酸味の強い発砲性の馬乳酒)を作っています。文の夫が清酒問屋の息子だったことからか、この頃、東京築地で会員制の酒屋を始め、電話で注文が入ると、文も一升瓶を抱えて配達にまわったそうです。文の父親の幸田露伴(当時68歳)が、近くの競馬場から馬の乳を入手して比較的簡単に作れるクーミスを作ることをすすめたそうです。その頃のことを、のちに、娘の青木 玉が『帰りたかった家』(Amazon→)に書いています。
昭和25年に開場した当地の「大井競馬場」(東京都品川区勝島二丁目1-2 Map→)は、変わらずに今も営業されています。当地が舞台の高村 薫の長編ミステリー『レディ・ジョーカー』では、この「大井競馬場」が事件の大きな鍵となります。
吉屋信子所有のイチモンジは、昭和30年5月8日のNHK杯で優勝したとか!
牧野信一の『ゼーロン』(Amazon→ 青空文庫→)の「ゼーロン」は馬の名です。“彼女”を溺愛した「私」が村を去ってから、ゼーロンは鞭を当てないと走らなくなっていましたが、ある所用から「私」が再びまたがると・・・。「私」の期待と恐怖と焦燥は次第に
嵩
じ、幻想みを帯びてきます。ゼーロン(または「
Z
」という名で) は、牧野の『
夜見
の巻』(青空文庫→)、『
剥製
』(青空文庫→)にも出てきます。
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辻谷秋人『馬はなぜ走るのか 〜やさしいサラブレッド学〜』(三賢社) |
高草 操
『日本の馬 〜人と共に生きる〜』(里文出版) |
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平松さとし『沁みる競馬』(KADOKAWA) |
映画「優駿」。原作:宮田 輝。周囲の様々な願いを受けて「オラシオン(祈り)」が日本ダービーを走る |
■ 馬込文学マラソン:
・ 『平家物語』を読む→
・ 辻 まことの『山の声』を読む→
・ 辻 潤の『絶望の書』を読む→
・ 吉屋信子の『花物語』を読む→
・ 牧野信一の『西部劇通信』を読む→
■ 参考文献:
●「宇治川の戦い」(杉橋隆夫)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録(コトバンク→) ●『大田区史年表』(監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行)P.115、P.432 ●『平家物語(ビギナーズ・クラシックス)(角川ソフィア文庫)』(平成13年初版発行 平成17年発行12版)P.166-176 ●『大田区の史跡散歩(東京史跡ガイド11)』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.199-202、P.211-212 ●『帰りたかった家』(青木 玉 講談社 平成9年初版発行 同年発行4刷)P.69-90 ●『幸田 文(新潮日本文学アルバム)』(平成7年発行)P.34-37 ●「わが町あれこれ(25号)」(編:城戸 昇 あれこれ社 平成12年発行)P.56 ●「火災保険地図 大森区 No.74」(発行:沼尻長治 昭和13年発行) ●『大田区の近代文化財(大田区の文化財 第十七集)』(東京都大田区教育委員会 昭和56年発行)P.86-87 ●『牧野信一と小田原』(金子昌夫 夢工房 平成14年発行)P.61-62 ●「昭和初期の池上競馬場跡地」(XWIN II Weblog→) ●「日本の廃競馬場マップ」(競馬場レポート→) ●「国家公務員の初任給の変遷」(人事院→ ※PDF)
※当ページの最終修正年月日
2024.1.20
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