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埴輪って?(大正15年11月23日より、田園調布の「埴輪製作趾」の調査が始まる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当地(東京都大田区)の「 浅間せんげん 神社古墳」から出土した「男子形 埴輪 はにわ 」(レプリカ)。「浅間神社古墳」は前方後円墳と推定されており、その後円部には現在「多摩川浅間神社」(田園調布一丁目55-12 map→)の社殿が建つ ※多摩川台公園内の「古墳展示室」(田園調布一丁目63-1 map→ site→)の展示物。現物は多摩川浅間神社が所蔵


大正15年11月23日(1926年。 より、当地(東京都大田区田園調布二丁目45、48 map→)で発見された「田園調布埴輪製作」(埴輪を製作した工房跡。以下「埴輪製作址」)の調査が始まりました。

森本六爾
森本六爾

道路工事の際に発見されたもので、アマチュア考古学者の森本 六爾 ろくじ (23歳)が中心になって発掘・調査されます。地面を長方形(約3~4m×2m)に35cmほど掘りさげた竪穴の建物跡で、床には「焼きが不十分な埴輪」が7~8個と、埴輪の材料と思われる埴輪6~9個分の粘土の塊があり、「埴輪製作址」と推定されました。広さや埴輪の数・粘土の量から1人か2人が製作に従事したと推測されています。遺構の近くの斜面には埴輪を焼いたと思われる 登窯のぼりがま の跡と思しきものも発掘されました。

「焼きが不十分な埴輪」と用意された粘土の量がだいたい見合うということは、供給先でダメ出しが出て作り直しの準備が進められていたのでしょうか。そして、ちょうどその時、作業を中断しなくてはならないようなこと、たとえば天変地異とか外敵の襲撃とかがあって、この状態で残されたのでしょうか?

「埴輪製作址」で作られた埴輪は、多摩川沿いの古墳のどれかに供給されていたと考えられます。

これらの古墳群は、「武蔵国造(くにのみやっこ)の乱」(大和政権と連合した使主(おみ)と、小杵(おき) が国造の座を争った。使主と小杵は役職名ではなく名前)で破れた小杵の関係者のものとの説もある。「武蔵国造の乱」については、『日本書紀』の安閑天皇元年の条に書かれている
これらの古墳群は、「武蔵国造くにのみやっこの乱」(大和政権と連合した使主おみと、小杵おき が国造の座を争った。使主と小杵は役職名ではなくかばね。使主は渡来人に多い姓)で破れた小杵の関係者のものとの説もある。「武蔵国造の乱」については『日本書紀』の安閑天皇元年の条に書かれている

「埴輪製作址」から古墳群まで500mほどはあります。埴輪を提供するにはもっと近くてもいいようなものです。古墳の主(特権階級)と、そうでない人々(例えば埴輪製作者)との住み分けがあったのでしょうか。

森本は、「埴輪製作址」の粗末な建築跡や、そこから鉄器すら出土しないことから(古墳からは手の込んだ金属器や副葬品が多数出土)、古墳時代には強固な階級社会が出現していたことを考察・発表しました。当時の埴輪研究は人物埴輪を中心とした服飾史的な考察がほとんどで、社会構造に言及した森本の考察は画期的でした。森本は「考古学の鬼」と呼ばれます(昭和11年32歳で死去)。

「(田園調布)埴輪製作址」。全国的にも貴重な遺跡だったが、宅地化によって失われ、出土遺物の所在も不明 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『大昔の大田区』 原典:「埴輪の製作所址及び窯址」(森本六爾「考古学」第1巻第4号 昭和5年) 「(田園調布)埴輪製作址」から出土した「朝顔形(円筒)埴輪」の破片。壺のように見えるが底がないようだ ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『大昔の大田区』 原典:「埴輪の製作所址及び窯址」(森本六爾 「考古学」第1巻第4号 昭和5年)
「(田園調布)埴輪製作址」。全国的にも貴重な遺跡だったが、宅地化によって失われ、出土遺物の所在も不明 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『大昔の大田区』 原典:「埴輪の製作所址及び窯址」(森本六爾 「考古学」第1巻第4号 昭和5年) 「(田園調布)埴輪製作址」から出土した「朝顔形円筒埴輪」の破片。壺のように見えるが底がないようだ ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『大昔の大田区』 原典:「埴輪の製作所址及び窯址」(森本六爾 「考古学」第1巻第4号 昭和5年)

ところで、埴輪とは何なんでしょう?

埴輪とは、古墳の盛り上がった部分やその側面に並べられた素焼き製品です。大別すると「円筒埴輪」と「形象埴輪」の2種。「円筒埴輪」は弥生時代後期からあり、その後に現れた「形象埴輪」はその形によって出現時期が異なり、家・器財→鳥・動物→人の順で出現したようです。家形・器財形・人形などの埴輪は、当時の特権階級の住まい、道具、衣装などが表現されていると考えられ、当時の特権階級の生活や思想を知る重要な手がかりになっています。

古墳時代後期より馬の埴輪が多数作られたことから(上右の写真:馬の絵(500年代)、下右の写真:馬の埴輪(400年代〜500年代初頭)を参照)、大陸からの騎馬民族の影響が相当あったと推測され、「騎馬民族征服王朝説」を唱える学者(東大名誉教授・江上波夫など)もいます。

「円筒形埴輪(レプリカ)」(多摩川台古墳群より出土)※多摩川台公園内「古墳展示室」(東京都大田区田園調布一丁目63-1 map→ site→)の展示物。現物は東京都大田区立「郷土博物館(南馬込五丁目11-13 map→ site→)」が所蔵 「形象埴輪(馬形)(レプリカ)」(浅間神社古墳より出土)※多摩川台公園内「古墳展示室」(東京都大田区田園調布一丁目63-1 map→ site→)の展示物。現物は「多摩川浅間神社」(東京都大田区田園調布一丁目55-12 map→)が所蔵
「円筒形埴輪(レプリカ)」(多摩川台古墳群より出土)※多摩川台公園内「古墳展示室」(東京都大田区田園調布一丁目63-1 map→ site→)の展示物。現物は東京都大田区立「郷土博物館(南馬込五丁目11-13 map→ site→)」が所蔵 「形象埴輪(馬形)(レプリカ)」(浅間神社古墳より出土)※多摩川台公園内「古墳展示室」(東京都大田区田園調布一丁目63-1 map→ site→)の展示物。現物は「多摩川浅間神社」(東京都大田区田園調布一丁目55-12 map→)が所蔵

古墳時代は、大型古墳が数多く作られた時代で、大和朝廷が日本国家の統一をなした200年代後半から600年代までのおよそ400年間を指します。大雑把にいえば、弥生時代と奈良時代に挟まれた時代で、飛鳥時代を含みます。弥生時代の後期には大型古墳がもう見られたので、時代の明確な線引きは難しいようです。大型古墳の分布は九州から東北にまでおよびましたが、当然、地域によって古墳文化の出現時期に差があったことでしょう。

大規模古墳で代表的な形態の「前方後円墳(当地(東京都大田区)にも多摩川沿いに観音塚古墳、蓬莱山ほうらいさん古墳、亀甲山かめのこやま古墳、浅間せんげん 神社古墳がある。上図参照)」は、古墳の形態や副葬品が全国的に極めて近い様式をもち、広い範囲の政治勢力の連合が形成され初めていることを物語ります。

文献的に見ると、『日本書紀』(伝・720年成立)の 垂仁 すいにん 天皇32年の条に「はにつち」「土物はに 」「埴輪」とあります。“埴”は、「に真っぐ立てる」と読め、まさに埴輪のイメージ。“輪”の字があるのは、埴輪の基本的形成方法が、粘土を輪っかにして積み上げていく方法だったからと推測されています。

『古事記』(712年成立)に垂仁天皇の弟・ 倭彦命やまと・ひこ・の・みこと のお墓に「人垣」を立てたとあり、『日本書紀』では、その「人垣」を従臣の生き埋めと解釈、300年代前半、垂仁天皇の皇后・ 日葉酢媛命 ひばす・ひめ・の・みこと の葬儀の際に、 「人垣」を悪習と嘆く垂仁天皇に、 野見宿禰のみ・の・すくね が「人垣」の代用として埴輪を進言したとしていますが(「殉死代用説」)、300年代前半にはまだ人形埴輪は出現しておらず、また、それ以前から家形埴輪・器財形埴輪は出現していたことなどから、それを“埴輪の起源”とするのは少々無理があります。

若狭 徹『埴輪は語る (ちくま新書)』。埴輪から読み解く、古墳時代の王権と社会 若狭 徹『古墳時代ガイドブック(ビジュアル版) (シリーズ「遺跡を学ぶ」別冊04)』(新泉社)
若狭 徹『埴輪は語る (ちくま新書)』。埴輪から読み解く、古墳時代の王権と社会 若狭 徹『古墳時代ガイドブック(ビジュアル版) (シリーズ「遺跡を学ぶ」別冊04)』(新泉社)
『騎馬民族は来た!? 来ない?!〜激論 江上波夫vs佐原 真』(小学館)。解説:樋口隆康 松本清張『或る「小倉日記」伝 (傑作短編集1)(新潮文庫)』。森本六爾がモデルの短編「断碑」を収録
『騎馬民族は来た!? 来ない?! 〜激論 江上波夫vs佐原 真』(小学館)。解説:樋口隆康 松本清張る「小倉こくら日記」伝 (傑作短編集1)(新潮文庫)』。森本六爾がモデルの短編「断碑」を収録

■ 参考文献:
●「古墳時代」(西岡秀雄)※『大田区史(上巻)』(東京都大田区 昭和60年発行)P.383-408 ●『大昔の大田区 ~原始・古代の遺跡ガイドブック~』(東京都大田区立郷土博物館 平成9年発行)P.22、P.24、P.79、P.108-110 ●「埴輪の話 Ⅳ」「埴輪の話Ⅴ」(清水久男)※『博物館ノート No.51〜No.100(復刻版)』(東京都大田区郷土博物館 平成11年発行) に収録 ●「森本六爾」(渡辺兼庸かねのぶ )※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「古墳時代」※「百科事典マイペディア」(平凡社)の一項目コトバンク→ ●「埴輪」(橋本博文)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤 まこと 五味 ごみ 文彦、 高埜 たかの 利彦、 鳥海 とりうみ 靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷参照)P.31-32 ●『日本書紀(二)(岩波文庫)』(校注:坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋 平成6年初版発行 平成10年発行6刷参照)P.44-46 ●『日本書紀(三)(岩波文庫)』(校注:坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋 平成6年初版発行 平成11年発行6刷参照)P.220-222 

■ 参考サイト:
六爾の博物館/森本六爾博物館展示のご案内→

※当ページの最終修正年月日
2022.11.23

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