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辻まこと『山の声』を読む(炉辺での話) - 馬込文学マラソン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもの頃、火はまだ身近だった。

たき火ならそこらじゅうでやっていたし、木をくべる風呂やストーブだってまだあった。

台風の晩、雨戸が蹴破けやぶられそうな風雨になると、お決まりの停電。その心細い闇の中、家族の真ん中でとも る一本のろうそくは明るく温かだった。

この画文集『山の声』のあとがきで、著者の辻 まことはこんなことを言う。

・・・炉辺ろべというのは不思議なものだ。 炉を囲んでほのおを見ている夜は、たとえ沈黙が一晩中続いたとしても、人々はけっして退屈もしないし気詰まりなおもいもしないのだ。 反対にまた乾いた喉に渋茶がそそがれ、あるいは盆代わりの茶碗が回り、誰かが賑やかにしゃべりはじめても、そう邪魔じゃまにならないだろう。相槌あいづちを打っても打たなくてもいいのだ。 語り手は半ば焔を聴手とし、人々は燃えうつり消える熱と光を してあるいは遠くあるいは近く、そこから生まれてくる話を聴くのだから。(『山の声』 あとがきより)

辻 まことは、火のある炉辺ろばた を思いながら、この画文集をつくったのだという。

本を開くと、なんのことはなく小鳥がさえず り、風がわたり、山里の民もいれば、山賊さんぞく も出てくる。オカリナをのんびり吹く人もいれば、ボクサー上がりの木こり、山をじっと見つめる気の違った女もいる。ちろん吹雪の日だってある。雪面はキラキラ輝き、峠にはお地蔵さん。犬と たぬき の合いの子のムグという奴が「ウーヒュー」とすっとんきょうな声を出せば、奇跡も起きる。

これらは、炉辺での気楽な話のようだが、深いところにも みてくる。一度でも山に入ったことがある人なら、無心に山道をたどる清々しさや、乾いた岩や針葉樹林や山小屋の匂いが蘇るかもしれない。

今や我々は、せいぜい、青白く均一に光るガスの火くらいしかほとんど目にしない。近いうちにそれも姿を消すかもしれない。そんな “ 火涸ひか らびた” 時代を生きるのだから、『山の声』を開き、せめて心の中だけでも落ち葉 きをしようか。


『山の声』について

辻まこと『画文集 山の声 (ちくま文庫版)』

昭和46年、東京新聞出版局から発行された辻 まことの画文集。他社からも出版されている。「あてのない絵はがき」5篇、「ムササビ射ちの夜」「白い道」など23篇とそれぞれに味わい深い挿絵が付されている。独特な線描はセルロイドの板にアクリル絵の具を塗って、歯科用のかぎ で引っ掻いて描いもので、辻が編み出した手法のようだ。

は当地(東京都大田区)に違う時期に数度住んでおり、小学校5年の時、子どもだけで、当地の蒲田あたりから源流を目指して多摩川を遡った時のことを書いた「多摩川探検隊」、当地の大森に住んだ頃の不思議な体験から、音楽や自身の 山行やまゆき(山行さんこう ・登山という言葉はには馴染まない) を洞察した「山の声」(この本の表題作)も収録されている。


辻 まことについて

辻まこと ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:ヒンドゥ-クシ海峡をこえて ~三千世界の逍遥遊、この世の果てから路地裏まで/昭和の漂泊者《辻まこと・父親辻潤》→
辻 まこと ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:ヒンドゥ-クシ海峡をこえて ~三千世界の逍遥遊、この世の果てから路地裏まで/昭和の漂泊者《辻 まこと・父親辻 潤》→

強烈な両親
大正2年9月20日、母親・伊藤野枝の福岡の実家で生まれる。 父親は辻 潤。本名は辻 まこと伊藤が大杉 栄の元に出奔辻 潤のもとで自由に(?)育った。昭和3年(14歳)、中学を中退し、父・辻 潤と渡欧、パリに1年ほど滞在した。ルーブル美術館でドラクロアに衝撃を受ける。滞在中、中里介山の『大菩薩峠』を耽読、中里がモットーとした“遊戯三昧”なる考えに共感する。

山を愛した自由人
昭和4年(15歳)に帰国、ペンキ屋、図案屋、化粧品屋、喫茶店などを転々とし、様々な生き方を試みる。竹久 不二彦ふじひこ夢二の次男)らと金鉱を求めて東北・信越の山を巡る。険しい山にも分け入り、滝や雪渓を登り、急斜面ではシャクナゲに体を縛りつけて眠るようなこともあったとか。金鉱探し自体は不成功だったが、この時の経験が、後の山行きの土台となり、また、後に描かれる絵や文章のモチーフともなる。

昭和13年頃(25歳頃)、武林イヴォンヌ(武林夢想庵の娘)と同棲、 野生のぶ が生まれる。エッセイ「山の声」に出てくる「二階の手摺りから満月に向って吠えた」という女の子は野生ではないだろうか。野生は竹久不二彦の養女となり、近所に住んでいた。

「権威」や「良識」に潜む暴力性や愚かしさをえぐる
昭和17年(29歳)、戦時下の配給や隣組の窮屈さから逃れるため、「東亜日報」の特派員として天津てんしんmap→に渡るが、そこで掠奪、陵辱、殺戮をほしいままにしている「自分の所属している国家の愚かさ」を目のあたりにする。戦後の『 虫類ちゅうるい 図譜』などに見られる風刺画はこれらの体験から生まれた。

戦時下は尾形亀之助の詩集『障子のある家』青空文庫→で心を支えた。草野心平とは戦前から面識があったが、戦後、バー「ルパン」(東京都中央区銀座五目5-11 map→ photo→)で再会、草野が探していた尾形の『障子のある家』をがポケットにしのばせていたことなどから親交するようになるようだ。『虫類図譜』は草野が主宰する「歴程」に掲載され、その独創性が詩人連を驚かせた。

ギターの名手であり、歌もよく歌い、スキーは教員級、バアの設計もやれば、話術も第一級。もちろん山へも行き、絵や文もたくさん成した。昭和50年12月19日(62歳)、胃がんを患い、死期を悟って自ら命を絶ったという。

福島県・長福寺(双葉郡上川内三合田29 map→)に建つ墓の墓石は、 草野が拾ってきた自然石だそうだ。

『辻 まことの世界』(みすず書房)。「虫類図譜」やエッセイ、矢内原伊作による評伝を収録 『遊ぼうよ(辻 まことアンソロジー)』(未知谷)。編・解説:琴海 倫
辻 まことの世界』(みすず書房)。「虫類図譜」やエッセイ、矢内原伊作による評伝を収録 『遊ぼうよ(辻 まことアンソロジー)』(未知谷みちたに)。編・解説:琴海 倫ことみ・りん

辻 まことと馬込文学圏

子どもの頃から当地(東京都大田区)とその周辺に幾度か住んだ。大正13年4月(まこと10歳)頃から4年ほど、父親の辻 潤辻 潤の母親の美津と3人で住んだのが最初だろうか。松竹蒲田撮影所(区民ホール「アプリコ」(東京都大田区蒲田五丁目37-3 map→)がある場所にあった)近くの長屋の一階・二階を占領し、この家は、戸締まりをせず真夜中でも来客を拒まなかったことから「カマタホテル」と呼ばれた。室伏高信中原中也も父親を訪ねて来たようで、小中学生のも彼らに会ったかもしれない。

昭和4年(15歳)にフランスから戻ってからも、当地(東京都大田区)の大岡山、中延、洗足などを転々としたもよう。

昭和10年(22歳)からは、「霜田アパート(現・東京都大田区南馬込二丁目29 map→)」に住むが、父親の辻 潤とその愛人の松尾としがもぐりこんでくる。昭和12年(24歳)、淀橋区柏木(現・新宿区西部)に移転するが、昭和14年(26歳)、再び当地のアパート(現・東京都大田区山王四丁目26 map→)に住む。 柏木にもこのアパートにも父親の辻 潤が現れ、父親から逃げることばかり考えたようだ。このアパートには、竹久不二彦と 野生 のぶ も住んだようだ(前年(昭和11年)から幸田 文もこのアパートの住人だった? 番地が同じ)

作家別馬込文学圏地図 「辻 まこと」→


参考文献

●『山の声(画文集)』(辻 まこと 東京新聞 昭和46年発行)P.23-30、P.136 ●『辻 まことの世界』(編集:矢内原伊作 みすず書房 昭和52年発行 昭和55年発行8刷参照)P.310、P.319、P.322、P.326 ●「辻 一 〜「『植物図譜』を」 ─辻 まこと追悼─」」※『続・私の中の流星群』(草野心平 新潮社 昭和52年発行)に収録

謝辞

R様。いろいろ教えてくださり、励ましのお言葉をくださり、ご著書まで送ってくださり、まことにありがとうございます。

※当ページの最終修正年月日
2021.9.20

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