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子どもの頃、火はまだ身近だった。 たき火ならそこらじゅうでやっていたし、木をくべる風呂やストーブだってまだあった。 台風の晩、雨戸が この画文集『山の声』のあとがきで、著者の辻 まことはこんなことを言う。 ・・・ 辻 まことは、火のある 本を開くと、なんのことはなく小鳥が これらは、炉辺での気楽な話のようだが、深いところにも
今や我々は、せいぜい、青白く均一に光るガスの火くらいしかほとんど目にしない。近いうちにそれも姿を消すかもしれない。そんな “
『山の声』について昭和46年、東京新聞出版局から発行された辻 まことの画文集。他社からも出版されている。「あてのない絵はがき」5篇、「ムササビ射ちの夜」「白い道」など23篇とそれぞれに味わい深い挿絵が付されている。独特な線描はセルロイドの板にアクリル絵の具を塗って、歯科用の 辻は当地(東京都大田区)に違う時期に数度住んでおり、小学校5年の時、子どもだけで、当地の蒲田あたりから源流を目指して多摩川を遡った時のことを書いた「多摩川探検隊」、当地の大森に住んだ頃の不思議な体験から、音楽や自身の
辻 まことについて
強烈な両親 山を愛した自由人 昭和13年頃(25歳頃)、武林イヴォンヌ(武林夢想庵の娘)と同棲、
「権威」や「良識」に潜む暴力性や愚かしさをえぐる 戦時下は尾形亀之助の詩集『障子のある家』(青空文庫→)で心を支えた。草野心平とは戦前から面識があったが、戦後、バー「ルパン」(東京都中央区銀座五目5-11 map→ photo→)で再会、草野が探していた尾形の『障子のある家』を辻がポケットにしのばせていたことなどから親交するようになるようだ。『虫類図譜』は草野が主宰する「歴程」に掲載され、その独創性が詩人連を驚かせた。 ギターの名手であり、歌もよく歌い、スキーは教員級、バアの設計もやれば、話術も第一級。もちろん山へも行き、絵や文もたくさん成した。昭和50年12月19日(62歳)、胃がんを患い、死期を悟って自ら命を絶ったという。 福島県・長福寺(双葉郡上川内三合田29 map→)に建つ墓の墓石は、 草野が拾ってきた自然石だそうだ。
辻 まことと馬込文学圏子どもの頃から当地(東京都大田区)とその周辺に幾度か住んだ。大正13年4月(まこと10歳)頃から4年ほど、父親の辻 潤と辻 潤の母親の美津と3人で住んだのが最初だろうか。松竹蒲田撮影所(区民ホール「アプリコ」(東京都大田区蒲田五丁目37-3 map→)がある場所にあった)近くの長屋の一階・二階を占領し、この家は、戸締まりをせず真夜中でも来客を拒まなかったことから「カマタホテル」と呼ばれた。室伏高信、中原中也も父親を訪ねて来たようで、小中学生の辻も彼らに会ったかもしれない。 昭和4年(15歳)にフランスから戻ってからも、当地(東京都大田区)の大岡山、中延、洗足などを転々としたもよう。 昭和10年(22歳)からは、「霜田アパート(現・東京都大田区南馬込二丁目29 map→)」に住むが、父親の辻 潤とその愛人の松尾としがもぐりこんでくる。昭和12年(24歳)、淀橋区柏木(現・新宿区西部)に移転するが、昭和14年(26歳)、再び当地のアパート(現・東京都大田区山王四丁目26 map→)に住む。 柏木にもこのアパートにも父親の辻 潤が現れ、父親から逃げることばかり考えたようだ。このアパートには、竹久不二彦と
参考文献●『山の声(画文集)』(辻 まこと 東京新聞 昭和46年発行)P.23-30、P.136 ●『辻 まことの世界』(編集:矢内原伊作 みすず書房 昭和52年発行 昭和55年発行8刷参照)P.310、P.319、P.322、P.326 ●「辻 一 〜「『植物図譜』を」 ─辻 まこと追悼─」」※『続・私の中の流星群』(草野心平 新潮社 昭和52年発行)に収録 謝辞R様。いろいろ教えてくださり、励ましのお言葉をくださり、ご著書まで送ってくださり、まことにありがとうございます。 ※当ページの最終修正年月日 |