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昭和22年4月1日(1947年。 GHQの命令で、町内会(町会、部落会とも。隣組を含む)が廃止されました。当地(東京都大田区)にも142の町内会(町会)がありましたが、全て廃止となります。 農村・漁村などでは大昔から地縁組織がありましたが、明治以降の都市部では、地域外からの人の流入が活発になり、地縁的結びつきが混乱、または弱まりがちでした。あっても元から住んでいる人たちの間にとどまり、地域全体のものにはなっていなかったのです。 都市部で地縁的結びつきが活発になるのは、関東大震災以降です。特に被災地では互いに協力し合う必要が生じたからです。 昭和になると、国や地方公共団体が旗を振って、地縁的結びつきを促進。満州事変後、日本は本格的な戦時下となり、国は、総力戦に向けて、地縁的結びつきを利用しようとしたのです。昭和7年頃(満州事変の翌年)には、全国的に、ほぼ網羅的に町内会が作られたといっていいでしょうか(当地の町内会はほぼ網羅的に設置された)。 日中戦争が始まる昭和13年、東京市は「隣組の
町内会長は「小天皇」と呼ばれ、在郷軍人が幅を効かせ、異論は許されなかったでしょう。相互監視も促進され、隣組が構成員の全生活を支配するようになったのです。 当時、 ・・・天皇陛下のために死ぬのである。それは 平塚らいてふや伊藤野枝らとともに女流文芸誌「青鞜」を作り(雑誌終末期には編集の実務にも当たる)、女性の自立(覚醒)を訴えてきた生田が、こんな文章を書くまでになるとは・・・ 戦後になって、GHQが、町内会を「戦時体制の遺物」と考え禁止したのには、以上のような理由があったのです。 GHQが間接占領方式をとったため、GGQの命令を日本政府はポツダム政令という形で公布・ 施行しました。町内会については「町内会部落会又はその連合会等に関する解散、就職禁止その他の行為の制限に関する政令」というポツダム政令が出されました。 当地(東京都大田区)では、それまで町内会が担ってきた行政上の伝達業務・防災活動などは区役所が引き継ぐことになりました。区内を18の区域に分けてそれぞれに出張所を置き、業務に当たりました。これが、現在18箇所にある特別出張所の起源です。 昭和26年、日本の主権が国際的に認められると、ポツダム政令は失効、町内会が任意団体として再結成されるようになります。当地(東京都大田区)では、町内会が再出発するにあたり、入会・脱会の自由を規約に明記するよう区が指導しました。 町内会には、上に書いたような負の歴史があるので、「上意下達の組織でなく、威張る人も不要」との観点から、「自治」が強調され、「自治会」と呼ばれるようになりました。平成8年の自治省の調査によると34%が「自治会」と称しているそうです(依然、町内会、町会、部落会、区などと呼ぶところも多い)。 現在(令和4年)、当地(東京都大田区)には218の自治会(町会)があり、住民同志をつなぐ活動、お祭りや各種行事などを通して地域の歴史や伝統を継承していく活動、地域の課題を解決していく活動(福祉、環境美化、防犯、交通安全など)などを行なっています。 近年、全国的に見て、自治会は減少傾向にあります。未加入家庭も増え、役員の高齢化・固定化・なり手不足・負担、活動のマンネリ化なども深刻化しているようです。区域外からの人の流入などによって多様な人が住む「混住社会」にどう対応していくか、「歴史や伝統の継承の名のもとで推進される戦前回帰の動向」にどう対応するか、「顔の見える関係」をどう作りだすかなど、課題がいろいろありそうです。 「たいへんなのは嫌だけど、地域のためにちょっとお手伝いしたい(人が喜ぶことをしたい)」と思う人は多いと思います。そういったちょっとした意識や力をどう組織化するか(巻き込むか)ですね。
■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |