アナキスト、ダダイスト、エゴイスト、ニヒリストというと穏やかからぬ感じだが、著者・辻 潤には、そのどれもが当てはまりそうだ。正直怖い。書名からして『絶望の書』。 相当暗くて、相当やばそうだ。
と、だから、用心して読み始めたが、これがなかなか面白い。英語やフランス語や漢文や不明言語が入り乱れ、駄洒落
あり、おちょくりあり、哲学っぽくもあり、宗教っぽくもあって、ゴッタ煮な感じで難解だが、頷かされる箇所も多い。
それで、辻の「絶望」とは何なのか?
大好きだった妻の伊藤野枝に逃げられ、酒に溺れ、精神を病んで奇行も多く、監禁もされ、そして最期はシラミにまみれての孤独死だ。辻の「絶望」を裏付けるものはたくさんある。が、辻はこんなことを言う。
・・・自分にとって、生きているということは恥をさらすということにしか過ぎない。またぞろ、かくの如き文集を出す所以である。この書を読んで読者はしばらく自己の優越を感じ給
え。著者にとってそれはいささかの慰めとなるであろう。自分はキャメレオンであり、マソヒストであり、なんでありかんである。なんてんかんてんところてんである。てんとして恥ずるところを知らざる猿でもある。・・・(辻 潤『絶望の書』 より)
「絶望」 を弄
んではいまいか? さらには、
・・・その阿呆
の代表みたいな顔をして生きているのが、自分という人間なのだ。これは
洒落
でも皮肉でもないのだ。小利口な奴等なら、世間にはウジャウジャと腐る程、転がっているのだ-----偶には自分のような阿呆のひとりや二人位いたって人類の名誉なりにはこそすれ、少しも恥辱にはならないと思っている。僕は自分を阿呆だときめているわけでもなければ、卑下して自分を阿呆と称しているわけでもない-----寧ろ僕は自分の阿呆を誇りとさえしている位である。・・・(同上)
という下りを読むと、彼の自信が伝わってくる。その感は本書を読み進めるうちに強まった。
社会から認められれば、社会に縛られてしまう。 辻は、「絶望」とか、「恥」とか、「キャメレオン」とか、「マソヒスト」とか、「猿」とか、「阿呆」と自分を表現し、バカにする人にはバカにしてもらって、かけがえのない自分を守った。アホになって、“正義の”戦争にはいっさい加担しなかった。
彼の「絶望」は仮面であり、それは彼の戦略だ。
『絶望の書』について
辻潤の46歳頃の著作。昭和5年出版。
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辻 潤『絶望の書・ですペら (講談社文芸文庫)』 |
辻 潤について
浅草生まれの少年は、尺八に熱中
明治17年10月4日(1884年)、浅草向柳原町
の祖父の隠居所で生まれる。祖父は浅草蔵前の札差(旗本・御家人の代理として禄米を受け取る仕事。 金貸しなどもした)で資産があった。4~5人のお手伝いさんにかしずかれ、当時では珍しい幼稚園にも通う。祖父の財は尽き、明治25年(8歳)、父の仕事の関係で三重県津
(map→)に転居。尺八の名人が隣に住んでいて興味を持つ。教会の日曜学校にも通った。明治27年(10歳)、東京に戻る。 開成中学に入学。斉藤茂吉と同じクラスだった。翌年退学。尺八の荒木古童(二世)に入門。7〜8歳で愛読した『西遊記』と、14〜15歳で愛読した吉田兼好の『徒然草』を読書の原点とする。日本の小説では泉 鏡花を特に好んだ。
語学を身につけ、身を立てる
明治32年(15歳)、給仕をしながら国民英学会英文科に学ぶ。内村鑑三の著作や、聖書や洋書にも親しむ。「平民新聞」(開戦論に転じた「万朝報
」を退社した幸徳秋水・堺 利彦らが発行)や北村透谷の著作も読んだ。小学校、英塾、夜学、家庭の教師を勤めながら、翻訳に励む。
伊藤野枝との出会いと別れ
明治42年(25歳)巣鴨町上駒込の借家(後に葬られる「西福寺」(染井吉野
の石碑がたつ。東京都豊島区駒込六丁目11-4 map→)の近く)に移転、翌明治43年(26歳)、ロンブローゾの 『天才論』を訳了(4年後(大正3年)に出版され反響を呼ぶ)。明治44年(27歳)、「上野女学校」(現「上野学園(中学校・高等学校)」(東京都台東区東上野四丁目24-12 map→))の英語教師になり、生徒の伊藤野枝に出会う。翌明治44年から同棲、翌々年(大正2年)、長男のまことが生まれた。近所の福田英子の紹介で、アナキストの渡辺政太郎とも出会う。大正4年(31歳)、婚姻届けを出すが、翌大正5年、野枝は渡辺から紹介された大杉 栄の元に去った。
浅草時代
東京北稲荷町(現・東上野。一部浅草地域)に住み、「英語、尺八、ヴァイオリン教授」の看板を掲げ、酒場「グリル・茶目」に入り浸り、浅草観音劇場で役者の真似事もする。佐藤惣之助、武林無想庵、谷崎潤一郎らと知り合う。
ダダイズムへ接近、そして渡欧
大正8年(35歳)、無想庵のすすめで、比叡山の宿坊に入り、翻訳に励む。“白蛇姫”(野溝七生子
のこと。辻の「永遠の女性」?)と出会う。大正10年(37歳)、マックス・シュティルナーの『自我経』(「唯一者とその所有」)を完訳、改造社などから発行し、こちらも話題となる。大正11年(38歳)、高橋新吉を通じてダダイズムを知る。 大正14年(41歳)、喘息の発作に襲われるが治療費がなく、見かねた人たちで「辻潤後援会」が結成された。昭和3年(44歳)より約1年間、「読売新聞」の文芸特派員としてパリに滞在。
漂白の末、死去
昭和7年頃より(48歳頃より)過度の飲酒が原因で精神に異常を来し、その奇行が新聞のゴシップ記事になる。辻が狂ったのか、それとも世の中が狂ったのか?(昭和6年日本は満州事変を引き起こし、昭和7年満州国建国、同年、五・一五事件)。
昭和19年(1944年)、東京上落合のアパートの一室で死去。警察医は狭心症としたが、餓死ともいわれる。 満60歳。 墓所は東京都豊島区の西福寺(
)。
■ 辻 潤評
●「今の日本に於
いて最も興味のある存在である」 「現代のおかしげなキリスト」(萩原朔太郎 ※朔太郎とは、パリから帰って来た昭和4年頃(45歳頃)から親交、 雑誌「ニヒル」を3号まで一緒に出した)
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『辻 潤 〜孤独な旅人〜』(五月書房)。編:玉川
信明
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高野 澄『風狂のひと辻潤 〜尺八と宇宙の音とダダの海〜』(人文書館) |
辻 潤と馬込文学圏
野枝が次男・流二を連れて家を出た大正5年頃(32歳頃)から終生、全国を放浪、当地(東京都大田区)とその周辺部(神奈川県川崎の砂子、「松竹蒲田撮影所」の裏辺り、息子のまことがいた「霜田アパート」(東京都大田区南馬込三丁目)、下宿屋「東館」(東京都大田区南馬込二丁目)、昭和14年(56歳)には、再びまことのアパート(東京都大田区山王四丁目26 map→)などに出没。近くの添田知道や尾﨑士郎を訪ねることもあった。尺八片手に門付けすることも頻繁で、奇行も目立ち、大森警察署に保護されたこともある。まことの友人の竹久
不二彦
(竹久夢二の次男)がもらい受けにいったそうだ。『馬込雑筆』なる一文があるほか、馬込在住時の写真も残る(Photo1→ Photo2→)。
■ 作家別馬込文学圏地図 「辻 潤」→
参考文献
●『絶望の書(辻 潤著作集1)』(オリオン出版社 昭和44年発行)序文、P.15 ●「辻 潤をめぐる杯」(添田知道)※『年譜(辻 潤著作集 別巻)』(オリオン出版 昭和45年発行) ●『辻 潤 〜「個」に生きる〜』 (高木 護 たいまつ社 昭和54年発行)P.78-79、P.83、P.90 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.101 ●「おやじについて」(辻 まこと)※『辻 まことの芸術』(編:宇佐見英治 みすず書房 昭和54年発行)※P.61 ●『萩原朔太郎(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行)P.74
※当ページの最終修正年月日
2021.8.28
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