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この本は、最初、著者の堀 辰雄による装丁で出版された。 白い固まりといった小さな本だ。白くて堅い外箱には、タイトルらしい文字がない。 本屋に平積みされても何の本だが分からないだろう。この本は、売るために作られたのではないのだ。おそらく、“誰か”に“届ける”ためだ。 外箱から本を抜き出してみる。 まだ真っ白だ。 表にも裏にも背にも何も書かれていない。 そして、厚手のカバーを開くと、ようやく本体が出てきて(カバーと本体が分離している)、太い明朝体で 「聖家族」 とある。 書き出しは、 死があたかも一つの季節を開いたかのやうだつた。 の一行。
『聖家族』 について
堀 辰雄の初期の代表作。 昭和5年(26歳)、「改造」に掲載され、昭和7年、江川書房から500部限定で発行された。フランスの“夭逝の天才” ラディゲの心理小説の影響を受けたとされる。先行して書かれた 『窓』 『軽井沢にて』 『軽井沢風景』 『ルウベンスの偽画』 は、 『聖家族』 に連なる要素を持っている。 ■ 作品評 堀辰雄について
複雑な家庭事情 抒情精神を貫く 昭和3年(24歳)、一生涯の持病となる肺結核の兆候が現れる。 大学を休学し、経済的にも逼迫。 そんな中で書かれた 『不器用な天使』 が文壇デビュー作となる。 誹謗の声が多かったが、新進作家として認められる。 昭和4年(25歳)、同人誌 「文学」 に参加。 翌年、 『聖家族』 を脱稿。 多くの作家から絶賛され、文壇に地位を得る。 プルーストを紹介。 昭和8年(29歳)、「四季」 を創刊、抒情詩作家の拠点となる。 昭和16年から保田与重郎などが参加し浪曼主義的傾向を強めたが、堀の自主精神によって大きくは流されなかった。 抒情的な作風は社会派の作家から 「微熱の文学」 と揶揄されたが、 戦中、社会派の多くが戦争容認に傾いたが、堀は抒情精神を貫きそうはならなかった。 昭和8年(29歳)、軽井沢で 『美しい村』 を執筆中、同病の矢野綾子に出会った。 翌年、婚約。 翌々年、綾子に付き添って富士見高原療養所に入所。 綾子は昭和10年12月6日に死亡。 彼女との出会いと別れは、代表作 『風立ちぬ』 に結実した。 この頃、モーリャックが提唱した 「客観的描写の背後に作家の人生が隠れている小説」 に感化され、私小説からの脱皮を目指す。 『風立ちぬ』 が終盤にさしかかった頃から、「日本の古い美しさ」 に心惹かれ、京都を巡り、『伊勢物語』 などの古典に親しむようになった。 『蜻蛉日記』 をもとに 『かげろふの日記』、 『更級日記』 をもとに 『
闘病の48年間 ■ 堀辰雄評
堀辰雄と馬込文学圏堀は当地(東京都大田区)の作家と深いつながりがあり、当地に何度か足を運んでいる。 大正12年(20歳)、小説修行のために弟子入りしたのが田端時代の室生犀星(34歳)で、犀星をつうじて芥川龍之介(31歳)や片山広子(45歳)とも出会う。 片山の娘(総子=宗瑛)とは友人関係にあった。 堀は彼女に友人以上の感情をもったようだ。 上で紹介した 『聖家族』 で登場する
「驢馬」 時代(昭和元年頃 22歳頃)、堀は向島の家で、佐多稲子(22歳)に仏語を教えている。 「四季」 では、三好達治、立原道造、津村信夫、萩原朔太郎、中原中也、竹村俊郎、室生犀星ら当地(東京都大田区)ゆかりの作家と交流があった。 昭和13年(33歳)、加藤多恵子と雅叙園(東京目黒)で式を挙げた。媒酌が犀星。立原や室生朝子も参列した。 式後、二人は大森ホテルに宿泊。 参考文献●『評伝 堀辰雄』 (小川和佑 六興出版 昭和53年) P.99-101、P.161、P.179 ● 『堀辰雄(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行) P.7、P.19-28 ●『物語の娘 宗瑛を探して』(川村湊 講談社 平成17年発行) P.124-125 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行) P.139-140 ● 『聖家族(江川書房版)(特選 名著復刻全集)』 (堀 辰雄 日本近代文学館 昭和51年発行) ●『大森 犀星 昭和』(室生朝子 リブロポート 昭和63年発行) P.237-238 参考サイト・ 明治大学図書館ホームページ/図書の譜/明治大学図書館紀要/純粋造本~江川書房と野田書房→ ・ 鬼火/やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇/やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注→ ※当ページの最終修正年月日 |