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昭和11年12月1日(1936年。 、堀 辰雄(31歳)の自伝的小説『風立ちぬ』の中でのこと、「私」は、一人、「K…村」へと向かいます。節子はもういません。 『風立ちぬ』は、二人が出会った頃の「序曲」からはじまって、節子に病いの気配が濃くなる「春」。そして、二人は、あたかも「蜜月の旅へでも出かけるやうに」して、八ヶ岳山麓のサナトリウム(結核療養施設)に向かいます。 「普通の人々がもう行き止まりだと信じてゐるところから」、二人は、かけがえのない愛をはぐくもうとするのでした。 夏、秋、と季節は移り、節子は急激に衰えます。 そして「冬」。ここからは、日付入りで「私」の日記として書かれています。 彼女はこの冬を越せるかも危ぶまれました。二人の心の微妙な綾は、本を読むしかありません。同作は映画やアニメにもなっていますが、この「冬」からの部分が充分に描けているとは思えません。「私」は節子のことを「可哀さうな奴」と思っているのですが、じつは、むしろ、節子が無私の愛で、「私」を慰めているかのようでもあるのでした。それと、最後の最後なのに、心を一つにできない悲しさ・・・ 「冬」が終わると、いよいよ最終章の「死のかげの谷」です。 冒頭に書いたように、「私」は、一人、「K…村」へと向かいます。彼女の死からもう1年ほどの時間が流れています。軽井沢の「幸福の谷(ハッピーヴァレイ)」と呼ばれる山深い別荘地の小屋で暮らし始める「私」には、節子を失った今、「幸福の谷」も、まるで「死のかげの谷」のようでした。 節子と二人でこういった寂しい山小屋で暮らすことを夢見ていた「私」でしたが、それはかなわず、一人。ふとした時に、節子の気配が立ち現われては、「私」を嬉しくさせますが、それが幻であることを知った後の寂寞。 しかし、「K…村」の人と自然に触れる中で、一人で山小屋暮らしをしている「私」にも変化があります。 ・・・その何もかもが親しくなつてゐる、この人々のいふところの“幸福の谷” ── さう、なるほどかうやつて住み慣れてしまへば、私だつてそう人々と一しよになって呼んでも好いやうな気のする位だが、・・・(堀 辰雄『風立ちぬ』より) と、心に少しずつ薄日が射してくるのでした。前ほど“節子”も現れません。 風立ちぬ、いざ生めやも。 この一節は、小説のタイトルにも使われ、エピグラフ(題句。題辞。巻頭に置かれる引用文)にもフランス語で引かれています。フランスの詩人・ポール・ヴァレリーの代表的な詩「海の墓地」の中の一節です。「風が立った、さあ、生きようではないか」といった意味なのでしょう(「やも」は詠嘆の反語的表現なので文法的には間違い)。これはかつて「私」が節子に この、愛する人の死を受けいれていく(死者が内面化されていく)プロセスこそが、この小説の肝なんだろうと思います。
「風が立つ」という言葉が素敵です。「風」と「立つ」の組み合わせは堀が生み出したのかと思ったら、昔から「風
山高みこずゑにあらき風たてて谷よりのぼる夕立の雲 という歌を作っています。 おやっ、堀が『風立ちぬ』の「序曲」「風立ちぬ」の2章を「改造」に発表したのが昭和11年12月(堀31歳)で、同じ年の3ヶ月ほど前(昭和11年9月13日)、立原道造(22歳)が次のような詩を作っていますね。 のちのおもひに 夢はいつもかへつて行つた 足元にひっそりと咲く水引草から「風が立つ」。そのイメージの秀逸さに触発されて、堀は『風立ちぬ』というタイトルを思いついたのではないでしょうか。
「風立ちぬ」で松田聖子さんの歌を思い浮かべる方も多いと思います。昭和56年にリリースされた7枚目のシングルです。松田さんが昭和55年のデビュー以来歌ってきたのはアップテンポの曲でしたが、これはバーラド調(物語的ニュアンスを持った楽曲。作曲は大瀧詠一)。ディレクターの若松宗雄さんは、松田さんにあえて抵抗感のある曲を用意して、彼女の音楽の幅を広げようとしたようです。作詞の松本 隆さんは、中学の修学旅行の時に見かけた軽井沢の「万平ホテル」(長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢925 Map→ Site→)のカフェテラスをイメージして詩を書きました。 “男性から旅立っていこうとする女性像”に対する男性ファンからの反応は今一つだったようですが、反対に、今まで松田さんのことを「ぶりっ子」と捉え距離を取っていた女性たちがこの歌をきっかけに注目し始めました。この曲で、松田さんにも新たな風が立ったようです。
平成25年には宮崎
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |