近所にも、まだ曲がったことのない角や、
辿
ったことのない小道があるはず。旅とは何だろう?
昭和12年9月3日(1937年。
当地の「
魚眠洞
」(室生犀星(48歳)の家の屋号。現「室生マンション」(東京都大田区南馬込一丁目49-10 Map→)で、立原
道造
(23歳)が、一高で同級だった友人に手紙を書いています。
・・・そして、みぢかい朝の束の間も梢
にちらちらする光を見ては、いそがしい日日の仕事に出て行つた。旅に行かれなかつた僕には、ここから仕事場にかよふのが、ほんたうにちひさかつたが、旅のやうにおもはれた。朝、バスを待つてゐるときは足もとにあさがほや
茄子やつゆくさがちひさい花をしめつた風にそよがせてゐた。そして夜にバスをおりるときは、何より先に蟲の聲とそれから草のつめたいにほひが僕をとりまいた。それが僕にははるかな國
の土のやうにおもはれたのだ。・・・(中略)・・・九月三日 蟲鳴く夜に 大森馬込 魚眠洞にて(田中一三あての手紙より)
立原は、この年(昭和12年)の3月、帝大の建築科を卒業し、「石本建築事務所」(東京都千代田区九段南四丁目6-12 Map→)に就職、5ヶ月経った頃です。「魚眠洞」からも通い(犀星一家が軽井沢に避暑に行き留守番をした)、その行き帰りに“小さな旅”を楽しんだのですね。
上の手紙を書いた翌日(昭和12年9月4日)、立原は、夜汽車で、犀星や堀 辰雄がいる軽井沢に向かいます。宿は追分の「
油屋
」(長野県北佐久郡軽井沢町追分607 Map→)。軽井沢にやってきた立原のことを、犀星が次のように書いています。
・・・立原道造の思い出というものは、極めて愉しい。軽井沢の私の家の庭には雨ざらしの木の椅子があって、立原は午前にやって来ると、私が仕事をしているのを見て声はかけないで、その木の椅子に腰を下ろして、大概の日は、眼をつむって憩
んでいた。追分からは汽車では十五分くらいかかるが、バスの時間を合わせると、追分の町から駅までの二十分の徒歩もかぞえて一時間くらいかかり、今日は軽井沢に出かけるのだといって、いつもより早起きするらしく、家につくとすぐ眼をつむって、居眠りをつづけていた。・・・(中略)・・・長い脚をそろえて、きちんと腰をおろしてやはり眼をつむっていた。いつ来ても眠い男だ、そよかぜが頬を撫で、
昏々
と彼はからだぐるみ、そよかぜに委せているふうであった。・・・(室生犀星『我が愛する詩人の伝記』より)
立原には前年(昭和11年。22歳)から病の兆候がありました。上の犀星の文章に「大概の日は、眼をつむって憩んでいた」とありますが、病が進んでいたのかもしれません。
立原が、軽井沢の犀星を初めて訪ねたのが3年前(昭和9年。立原19-20歳)。以後親交するようになりました。
翌年(昭和10年)の8月15日、立原(21歳)は、軽井沢で、浅間山の爆発を初めて見ます。
ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた
・・・(中略)・・・
いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた
(立原道造「はじめてのものに」より)
立原は横田ケイ子のことをエリーザベト(エリザベート)と呼びました。「火山の物語」と「ケイ子の物語」とが
綾
なす夜の夢・・・。
「漁眠洞」から軽井沢に行った1ヵ月後、立原は肋膜炎と診断され(昭和12年10月。23歳)、翌月の11月、静養を目的にまた「油屋」に滞在しました。
その静養中の11月19日、隣の養豚場から火が出て「油屋」へ燃え移り、2階にいた立原は火に巻かれ一か八かということもありました。その頃 堀 辰雄も「油屋」に滞在しており、たまたま郵便局に出ていて無事でしたが、部屋にあった『かげろふの日記』続篇の資料とノートを全て焼失しています。
焼け出された立原は一旦軽井沢の「つるや旅館」に移り、2日後に「魚眠洞」に戻ってきますが、その前に友人の
猪野
謙二(24歳)がいる「九州閣」(現在「みのり幼稚園園芸所」(東京都大田区南馬込三丁目39 Map→)があるあたりにあったアパート。渡辺喜恵子や長岡輝子も住んだことがある)に立ち寄っています。その時のことを猪野が次のように書いています。
・・・あまり見なれない紺がすりの着物に、うすよごれた下駄(その下駄には軽井沢のつるやの焼印があったのをはっきり覚えている)をつっかけて、ドアをあけるとわっと声をあげそうなつきつめた表情をしてかれが立っていた。 信州追分から上野に着いてまっすぐにきたという。追分の油屋の火事で焼け出されてきたのだった。火のまわりが早く、二階の窓の格子窓を破って消防団のひとにやっとからだだけ助けられたという話。その頃かれが自慢にしていたチェッコスロヴァキアのネクタイも、四つぼたんの、衿のつまった黒の背広も、みんな焼けてしまったという話。---そんな話を、さながら悪魔の祭典に立ち合ってきたひとのような異様な興奮をもって喋りつづけ、やがて風のように立ち去っていった。・・・(猪野謙二『大森のおもいでばなし』より)
その後、立原は生き急ぐかのように、同年(昭和12年12月。23歳)、第二詩集『暁と夕の詩
』を世に出し、翌年(昭和13年。23〜24歳)自らが療養するための「ヒアシンスハウス」を計画。病をおして、東北旅行(内、約1ヵ月間は盛岡の深沢紅子
の生家の別荘に滞在)、長崎旅行にも出ました(奈良、京都、松江、福岡、柳川にも立ち寄る)。
どこにいても、何をしていても、遠くに行っても、近くにいても、立原は旅をしている感じです。
・・・手にさはる 雑草よ さはぐ雲よ
僕は 身をよこたへる
もう疲れと 眠りと
真昼の空の ふかい淵に……
(立原道造「風に寄せて」)
12月6日にはとうとう喀血、帰京して、東京都中野区江古田の診療所に入院します。
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立原道造『
萱草
に寄す』(日本図書センター)。『暁と夕の詩』も収録。楽譜に模して立原自らが装丁した初版本を部分的に再現 |
トリスタン・グーリー『日常を探検に変える 〜ナチュラル・エクスプローラーのすすめ〜』(紀伊國屋書店)。訳:屋代通子 |
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乗代
雄介『旅する練習』(講談社) |
『だから死ぬ気で旅に出た』(ぶんか社)。原作:片岡恭子。漫画:小沢カオル |
■ 馬込文学マラソン:
・室生犀星の『黒髪の書』を読む→
・堀 辰雄の『聖家族』を読む→
■ 参考文献:
●『立原道造全集 第四巻』(角川書店 昭和33年発行)P.420-425 ●『立原道造全集 5』(筑摩書房 平成22年発行)P.336-349 ●『立原道造・愛の手紙(文学アルバム)』(小川和佑 毎日新聞社 昭和53年発行)P.34、P.200-206 ●『我が愛する詩人の伝記(新潮文庫)』(室生犀星 昭和41年初版発行 昭和54年発行18刷)P.110-114 ●『僕にとっての同時代文学』(猪野謙二 筑摩書房 平成3年発行)P.32-33 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行) P.84-87 ●『萱草(わすれぐさ)に寄す』(立原道造 日本図書センター 平成11年発行)P.197-200
※当ページの最終修正年月日
2024.9.3
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