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窓がほしい(昭和13年11月15日、立原道造と水戸部アサイ、別所沼を訪れる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2人が行ったのと同じ日(11月15日)に別所沼に行ってみた(平成22年11月15日撮影)

 

芥川龍之介

昭和13年11月15日(1938年。 立原道造たちはら・みちぞう (24歳)が、彼も勤めた石本建築事務所(東京都千代田区九段南四丁目6-12 map→)でタイプライターをしていた 水戸部みとべ アサイPhoto→と、 別所沼べっしょぬま (埼玉県さいたま市南区四丁目 map→)を訪れています。立原は前年(昭和12年10月)に肋膜炎と診断され、喀血もし、同年(昭和13年)7月20日より休職していました。迫りくる病の恐怖とたたかいながらも、水戸部を愛するようになります。

立原は別所沼沼畔に、「ヒアシンスハウス( 風信子ヒアシンスハウス )」という一人で住むための小さな家を建てようとしていたのです。当時は葦が生い茂る原始の香りがする場所でした。そこで思う存分転地療養しようと考えたようです。ヒアシンスには「再生」という花言葉もあるとか。あるいは、立原がヒアシンスにそういったイメージを付与したのかもしれません。

詩人としてよく知られる立原ですが、帝国大学建築科に在学中、優秀な学生に贈られる辰野賞を3度も受賞しており、建築家としても嘱望されていました。 石本建築事務所に就職できたのも、その才能が高く買われてでしょう。前年の昭和12年夏は、軽井沢に避暑に出かけた室生犀星一家の当地(東京都大田区)の家の留守をあずかり、そこから石本建築事務所に通っていました

立原は「ヒアシンスハウス」のために50通りものスケッチを描いたようです。

立原が残した「ヒアシンスハウス」のスケッチの一つ ※「パブリックドメインの図・絵画(根拠→)」を使用 出典:『立原道造・愛の手紙』(毎日新聞社)
立原が残した「ヒアシンスハウス」のスケッチの一つ ※「パブリックドメインの図・絵画(根拠→)」を使用 出典:『立原道造・愛の手紙』(毎日新聞社)

その頃立原は、次のように書いています。

僕は、窓がひとつ欲しい。

あまり大きくてはいけない。 そして外に鎧戸よろいど、内にレースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。 窓台は大きい方がいいだらう。 窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。

そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。 湖水のほとりにはポプラがある。 お腹の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐる。 湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやはらかなまりのやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきりした輪廓りんかく(輪郭)がいくらか空の青に溶けこんでゐる。

僕は室内にゐて、栗の木でつくつたもたれの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。 タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。

僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。……

(立原道造の草稿 「鉛筆・ネクタイ・窓」 より  ※Webサイト 「ヒアシンスハウス /ヒアシンスハウスについて」 から転載させていただきました)

立原はこの家で、一人療養に努めるとともに、水戸部や友人らを招き、自然の中でともに過ごすことも考えていました。 家の前にポールを立て在宅していることを知らせる旗をたなびかせる。住所を知らせる名刺はもう友人・知人に配っていたようです。

ところが、立原の病状はさらに悪化して入院、水戸部が懸命に看病にあたりましたが、4ヶ月ほどして他界(昭和14年3月29日)、「ヒアシンスハウス」の夢も立ち消えとなります。

近年、有志が立原の夢を実現させようと募金を始め、用地を得るために市役所に何度も通い、立原没後65年した平成16年11月、「ヒアシンスハウス」が現実のものとなります。「ヒアシンスハウスの会」代表の北原 立木たちき さんがその会報の冒頭で、

奇跡であり、驚愕であり、感謝である。

と書いています。これは、天上の立原の言葉でもあるでしょう。

「ヒアシンスハウス」が建つ別所沼へは、京浜東北線の浦和駅map→からは徒歩20分ほどで、埼京線の中浦和駅map→からは徒歩5分ほど。水・土・日・祝の10:00~15:00には中に入ることができます。入場無料。ボランティアの方がいろいろ教えてくださいます。ぜひ、お訪ねください。●「ヒアシンスハウスの会」のサイト→

緑に溶け込むようにして建つ「ヒアシンスハウス」。脇に1本のポプラが 木の階段を3つ上がると緑のドア。内側に開き、客人を招き入れる
緑に溶け込むようにして建つ「ヒアシンスハウス」。脇に1本のポプラが 木の階段を3つ上がると緑のドア。内側に開き、客人を招き入れる
「窓」は、「家」で「公」(外界)と「心」(私)が出会う場所 十字にくり抜かれた雨戸。閉めると、室内に十字が浮かぶ
「窓」は、「家」で「公」(外界)と「心」(私)が出会う場所 十字にくり抜かれた雨戸。閉めると、室内に十字が浮かぶ
15㎡ほどの細長い空間の奥に作り付けられた一人用ベッド。そして、「小さな窓」
15㎡ほどの細長い空間の奥に作り付けられた一人用ベッド。そして、「小さな窓」

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小川和佑(かずすけ)『立原道造・愛の手紙(文学アルバム)』(毎日新聞社) Hyacinth edition No.4『「優しき歌」の世界 ~立原道造と水戸部アサイ~』(立原道造記念館)
小川和佑かずすけ立原道造・愛の手紙(文学アルバム)』(毎日新聞社) Hyacinth edition No.4『「優しき歌」の世界 ~立原道造と水戸部アサイ~』(立原道造記念館)
鈴木了二『寝そべる建築』(みすず書房)。野心や自己顕示のための建築に抗うような立原建築に言及 種田元晴『立原道造の夢みた建築』(鹿島出版会)。平成28年発行
鈴木了二『寝そべる建築』(みすず書房)。野心や自己顕示のための建築に抗うような立原建築に言及 種田元晴『立原道造の夢みた建築』(鹿島出版会)。平成28年発行

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■ 参考文献:
●『立原道造・愛の手紙(文学アルバム)』(小川和佑 毎日新聞社 昭和53年発行)P.34、P.45-47、P.200-204 ●『萱草 わすれぐさ に寄す』(立原道造 日本図書センター 平成11年発行)P.199 ●「風の詩(第1号)」(ヒアシンスハウスの会・会報 平成20年発行)

■ 参考サイト:
ヒアシンスハウス Haus-hyazinth official site→ ●いわきBiweekly Review「日々の新聞(第78号)」ヒアシンスハウス→

※当ページの最終修正年月日
2019.11.16

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