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2人が行ったのと同じ日(11月15日)に別所沼に行ってみた(平成22年11月15日撮影) 昭和13年11月15日(1938年。
立原は別所沼沼畔に、一人で住む小さな家を建てようとしていたのです。立原は、帝大(工学部建築科)在学中より発熱などの結核の兆候がありましたが、卒業した昭和12年の10月には肋膜炎と診断され、喀血もし、同年(昭和13年)7月20日より休職していました。周りに感染するのを恐れ、一人住む場所を探したようです。 その頃の別所沼沼畔は葦が生い茂る原始の香りがする場所でした。そこで思う存分転地療養しようと考えたのでしょう。 昭和12年夏、立原は、軽井沢に避暑に出かけた室生犀星一家(東京都大田区)の留守をあずかり、そこから石本建築事務所に通っていましたが、仕事とは別に、自分の家のイメージも固めていったのでしょう。50通りものスケッチが残っているようです(Photo→)。湖の対岸から見た家のイメージもスケッチしています。ワンルームの家という発想自体、当時は先駆的だったようです。詩人としてよく知れる立原ですが、実は、帝大建築科で辰野賞を3度も受賞するといった建築界から注目される存在でもあったのです。 同年(13年)夏には家のイメージがかたまり、神保光太郎に紹介してもらった別所沼を水戸部と見に行ったのでしょう。水戸部と結婚後の新居であるに関わらず、ベットが一つというのが切ないです。 家の名前は「ヒアシンスハウス」。ヒアシンスには「再生」という花言葉もあるとかで、病の気配を感じていた立原は、ことのほか、この花を愛したのかもしれません。帝大卒業記念に発行した『 「ヒアシンスハウス」は一人用ですが、立原は、水戸部や友人らを招き、自然の中でともに過ごすことも考えていました。 家の前にポールを立てて在宅していることを知らせる旗をたなびかせるといった楽しい設計もなされています。住所を知らせる名刺は友人・知人にもう配っていたようです。 ところが、立原の病状はさらに悪化して同年(昭和13年)末に入院、水戸部が懸命に看病にあたりましたが、翌年(昭和14年)3月29日他界します。「ヒアシンスハウス」の夢もそのまま立ち消えとなりました。 ところが、近年、有志が立原の夢を実現させようと募金を始め、立原没後65年した平成16年11月、「ヒアシンスハウス」が現実のものとなりました! 京浜東北線の浦和駅(Map→)からは徒歩20分ほど、埼京線の中浦和駅(Map→)からは徒歩5分ほどでたどりつきます。水・土・日・祝の10:00~15:00には中に入ることもできます。入場無料。ボランティアの方がいろいろ教えてくださいます。●「ヒアシンスハウスの会」のサイト→
自分の棲家を自ら創造すべく、その夢に邁進した立原のワクワクした気持ちが伝わってきます。 「住まい」という箱物はなくても、全ての人(全ての動物)に「棲家」があるんですね、当たり前のことですが。 持ち家もあれば、賃貸もある。安く住める所を求める人は多いはずなのに、増え続ける空き家が問題になっている(国や公共団体が買い取って格安(または無料)で貸せば、少子化対策、過疎化対策になるのでは?)。豪邸に住むのを好む人もいれば、野に住むことを好む人もいる。広い家やタワーマンションは、実は不便ではないのか? 木の上に住んでいる人とか、洞窟に住んでいる人とか、船に住んでいる人とや、宙ぶらりんで住んでいる人とか、車の中で住んでいる人とか(ケストナーの『飛ぶ教室』(Amazon→)の“禁煙先生”は、廃車になった鉄道の禁煙車両に住んでいる)、どのくらいいるんだろう? そういった住まいは、案外、防災面や、SDGsの面からすると優れているんだろうか?、自分で家を作ることは可能か?、集合住宅のいい点・悪い点・・・などなど、住まい(棲家)の多様なあり方は、興味深いですね。 一生同じ所に住み続けるような人もいるかもしれませんし(映画「海の上のピアニスト」(Amazon→)は、生涯船を降りることのなかったピアニストの物語)、中原中也、北原白秋、辻 潤、のように、転々と住まいをかえ、あたかも放浪しているかのような人もいます。
『方丈記』(Amazon→)の著者として知られる鴨 長明は、宇治川(淀川の京都府内での名称)を遠くに望む郊外に、1辺が1丈(3mm)ほどの住まいに建てて(組み立て式で運搬もできた)、念仏、和歌、琵琶に興じる晩年を過ごしています。対人的な煩わしさから離れ、自らの心の赴くままに生きる生き方は一つの憧れとなり、吉田兼好や松尾芭蕉らに受け継がれていきます。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |