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戦中に音楽(昭和19年5月5日、長岡輝子宅で「篠原社長慰安の夕べ」開かれる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

辻 潤

昭和19年5月5日(1944年。 長岡輝子(36歳)が、当地(臼田坂上。東京都大田区南馬込四丁目?)の自宅で、 「篠原社長慰安の夕べ」という会を開いています。

篠原社長とは、実業家の篠原 玄。 後に長岡の夫になる人です。妻を亡くしたばかりの篠原を慰める目的で会は催されました。長岡の家の向かいに住む妹の陽子の家族も参加しています。

プログラムは以下の通り。

第一部
1 セロ独奏 倉田 たかし
2 詩の朗読 長岡母子
3 「馬」 チェーホフ作 演劇工房
4 アコーディオン独奏 和田氏
---お茶にいたしましょう

第二部
1 お家自慢 各有志
  イ、ひょっとこ 坂井氏
  ロ、たこ 畦上あぜがみ
  ハ、月形半平太 照井てるい
2 社長挨拶
3 海ゆかば

※長岡輝子『夫からの贈りもの』(草思社)より

戦時、日本は、対戦国の言語や文化を「敵性〜」と呼んで排斥したので、ロシア出身のチェーホフをやるのはやばいのでは?と思いきや、日本とソ連は昭和16年4月に有効期間5年の「日ソ中立条約」を締結していたので、OKだったのですね。

「日ソ中立条約」は昭和21年4月まで有効でしたが、その満了1年前の昭和20年4月5日ソ連は同条約を延長しないことを通告してきます。条約は締結国の一方が破棄通告してもその後1年間は有効とされますが、ソ連は、その8月8日に中ソ大使を呼び出して宣戦布告状を渡し、翌日の8月9日(長崎に原爆が投下された日)満州に侵入してきました。実は、 半年前の2月4日より米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長が、ウクライナのヤルタで会し(「ヤルタ会談」)、戦後のヨーロッパのあり方と日本を降伏に追い込む方法などが話し合われていました。その場で、ルーズベルトがソ連の日本への宣戦布告を強く要求したのです。スターリンもその心算であることを話し、チャーチルも同意。8月9日のソ連の参戦は三者の同意済みだったのです。「日ソ中立条約」の中途破棄は法的にはソ連の違反行為ですが、連合国側全体の意思でもあったのです。昭和16年、日本と同盟関係にあったナチスドイツが「独ソ不可侵条約」を無視してソ連に奇襲を仕掛けたこと、日本政府内にも状況次第で「日ソ中立条約」を一方的に破棄する意見があったことなども考慮する必要がありそうです。しかして、日本敗戦時には、ソ連(現・ロシア)と日本は完全に敵対していました。

倉田高

昭和19年5月5日の「篠原社長慰安の夕べ」のプログラムの最初に倉田 高(30歳)の名があります。当時の日本のトップ・チェリストです。長岡の妹の陽子の夫で、フランスでチェロを学び、パリでのリサイタルを成功させてパリでも人気がありました。アジア太平洋戦争の真っ最中とはいっても空襲が激化するのはもう少し先なので(東京が初めて大きな空襲に見舞われるのは昭和19年11月24日)、まだこういった会を開くことができたのですね。

左から倉田 高 ( たかし ) 、妻の陽子、赤ちゃんは長女の澄子さん(後にチェリスト wik→)(撮影:昭和18年) ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『長岡輝子の四姉妹』(草思社) 左から倉田 たかし 、妻の陽子、赤ちゃんは長女の澄子さん(後にチェリスト wik→)(撮影:昭和18年) ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『長岡輝子の四姉妹』(草思社)

長岡のすぐ下の妹の 節子 みさおこ が作曲家で指揮者の 尾高尚忠 おだか・ひさただ 倉田に「チェロ協奏曲」を書いている)と結婚しており、尾高夫妻がパリで知り合った倉田を陽子さんに紹介したようです。「篠原社長慰安の夕べ」の2年前の昭和17年6月に、倉田と陽子は結婚。ちなみに尾高夫妻の長男は作曲家 の尾高 惇忠 あつただ さんで、次男の 尾高忠明さんは現在NHK交響楽団の正指揮者なので(令和4年5月5日現在)ご存知の方も多いことでしょう。

倉田と陽子は、 最初、倉田の父が住む当地(東京都大田区山王)の豪邸に寄食しますが、倉田は贅沢な暮らしには批判的で、1年後の昭和18年には、当地の臼田坂上に家を買い、父からの援助も断って独立。当地でさずかった長女の澄子さんを背負ってチェロの練習に勤しむ日々でした。この家には、石井好子(日本シャンソン界の草分け コトバンク→)、高木東六(テレビでも活躍した作曲家・ピアニスト。チェロ協奏曲「タンゴ幻想曲」は倉田に捧げられた コトバンク→)、黒柳 守綱 もりつな (黒柳徹子さんの父親。ヴァイオリニスト コトバンク→)なども集ったそうです。

前途洋々の倉田でしたが、「篠原社長慰安の夕べ」の翌年(昭和20年)、疎開先の箱根強羅で肺結核により32歳という若さでこの世を去りました。

日本のオーケストラの原点には山田耕筰がいます。大正14年に山田が設立した「日本交響楽協会」(協会)がその嚆矢とされますが、その翌大正15年には大半の楽団員が山田から離反、「新交響楽団」(新響)を設立します。この新響が以後、日本の音楽シーンをリードしていきました。ドイツ大使館からの寄付もあり、良い楽器も揃ってきました。

芥川龍之介が音楽評論家の大田黒元雄に「音楽家はいいですね」とこぼしました。音楽家はどんな表現をしても発売禁止になることがないからだそうです。世界でも例がないほど悪辣な法律・「出版法」「新聞紙法」ができてしまったので、物書きはいつもビクビクしながら執筆せざるを得なかったのです。

しかし、音楽家は本当によかったのでしょうか?

ローゼンシュトックwik→は、ポーランド生まれでユダヤ系。ドイツで活躍していましたが、昭和8年ナチスドイツから国外追放を宣告され(昭和8年1月30日、ヒットラーがドイツの首相になった)、逃れるようにして日本に来て、昭和11年より新響の常任指揮者を務めました。ところが、日本とナチスドイツの関係が深まる中で、活動休止に追い込まれて軽井沢に移転、そこで終戦を迎えています。

日本国憲法の人権条項に携わったベアテ・シロタ・ゴードンの父親・レオ・シロタwik→は、著名なピアニストですが、彼も他の在留欧米人と同じように、軽井沢へ強制疎開させられ(頭に血が上った日本人からの保護の目的もあったかもしれない)、戦中、旧有島武郎別荘「浄月庵」(有島と波多野秋子が自死した場所)にて、憲兵の監視下で過ごしています。

英米のレコードは一掃され、演奏の際は警視庁に前もって曲目を知らせて検閲を受け、“敵性音楽”と見なされたものは排除されました。

中丸美繪『嬉遊曲、鳴りやまず 〜斎藤秀雄の生涯〜(新潮文庫)』。“音楽の鬼”を通して見た日本クラシック界の戦前と戦後。宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』の指揮者のモデルが斎藤であるとの説得力ある推測あり。日本エッセイスト・クラブ賞受賞作 中川右介『戦争交響楽 〜音楽家たちの第二次世界大戦〜 (朝日新書)』。ヒットラー政権誕生時からの音楽家約100人の動向。仕事を得るためにナチスに入党したカラヤン、ファシズムとの対決姿勢を打ち出したトスカニーニ他
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山本尚志『日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ』(毎日新聞社)。リストの再来とも称されたピアニストが昭和初期になぜ日本を訪れ、日本で終戦を迎えることになったのか 「戦場のピアニスト」。監督:ロマン・ポランスキー。あるユダヤ系ポーランド人ピアニストが、ナチスドイツ占領下のポーランドで遭遇する過酷な運命。アカデミー賞を3部門で受賞
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■ 馬込文学マラソン:
芥川龍之介の『魔術』を読む

■ 参考文献:
●『ふたりの夫からの贈りもの』Amazon→長岡輝子 草思社 昭和63年発行)P.91-152 ●『長岡輝子と四姉妹』(鈴木美代子 草思社 平成17年発行)P.296 ●『昭和史(1926-1945)(平凡社ライブラリー)』(半藤一利 平成21年発行)P.444-446、P.453、P.464、P.477-478 ●「日ソ中立条約」(中西 治)コトバンク→※出典:「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館) ●『詳説 世界史研究』(編集:木下康彦、木村靖二、吉田 寅 山川出版社 平成20年初版発行 平成27年発行10刷参照)P.500 ●『昭和史写真年表(1億人の昭和史)』(毎日新聞社 昭和52年発行)P.82 ●『嬉遊曲、鳴りやまず 〜斎藤秀雄の生涯〜(新潮文庫)』(中丸美繪 平成14年発行)P.98-101、P.222-223 ●『第二音楽日記抄』NDL→大田黒元雄 音楽と文学社 大正9年発行)P.54-55

※当ページの最終修正年月日
2024.5.5

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