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昭和17年9月9日(1942年。 総合雑誌「改造」(改造社刊。改造社の社屋(東京中央区銀座5-13-18 )は現在も残る Map→ Photo→)が発売禁止になりました。 同誌8月・9月号に掲載された細川 その後、陸軍報道部の 5日後(9月14日)に細川が検挙され、「改造」の編集長・大森直道と細川論文に中心的に関わった編集者・相川 博が退社しました(軍部にも取り入って“上手くやりたかった”社主・山本実彦の怒りを買ったのでしょう)。 さらには、細川が家宅捜査された時に出てきた1枚の写真(世話になっている編集者を細川が郷里の
「手柄のため」といえば、上述の矢萩発言にある「手ぬかり」という言葉は、出世争いの相手だった「情報局」の松村 「反戦」や「民族自決」(他国の主権の尊重)を共産主義に結びつけて「反日」と断罪したのは表向きで、こういった内輪の醜い出世争いの側面もあったのですね。 「時局をわきまえていない」いう言葉でも、多くの表現が弾圧されました。 昭和16年、「 『縮図』は、作家と芸者の交流を描いた作品です。戦後、未完ながらも出版され、高い評価を受けました。「わきまえて」書きつないでいたら「作家秋声は死んだだろう」とは、文芸評論家・野田宇太郎の言葉。統制機関が珠玉の作品を闇に葬った歴史を忘れてはなりません(忘れれば、同じことがまた繰り返される)。 日中戦争を始めた政府は「国民精神総動員」(昭和12年〜)を打ち出し、遊興や贅沢を戒めますから、その最たるものとして花柳界が標的になったとも考えられますが、それ以上に、戦争遂行の要(政界や産業界)が花柳界と深い繋がりがあることや、官憲の不正行為などを、秋声が書いてしまったのが「極めてよろしくなかった」のでしょう。同時期に書かれた川端康成の『雪国』(昭和10〜)にも芸者が出てきますが、そちらは昭和12年、政府お墨付きの「文芸懇話賞」を受賞しています。良心を持って社会を描出すればすなわち体制批判になった時代、川端は“上手くやった”のですね。 日本は言論統制の“先進国”でした(現在も?)。 「出版法」(明治26年公布)と、「新聞紙法」(明治42年公布)によって、あらゆる出版物を発行3日前までに内務省に提出、許可を得なくてはなりませんでした。それらは検閲され、皇室の尊厳の冒涜、
「出版法」が公布された明治26年は日清戦争の1年前で、「新聞紙法」が公布された明治42年は「明治43年の大フレームアップ事件」(俗称「大逆事件」)、「韓国併合」の1年前です。国が“悪さ”する前に批判の口封じの方策も用意したのでしょう。 日本近代詩史上の金字塔的作品『月に吠える』(萩原朔太郎)も、当初「風俗の壊乱」を理由に発禁の通達を受けています。原稿の段階での「事前検閲」ではなく、出版物が完成してからの「事後検閲」であり(発行6日後に発売禁止の通達があった)、著者のみならず出版社、印刷業者、製本業者などに精神的・経済的に大きなダメージを与えました。この意地悪で見せしめ的な処遇は、世界でもほとんど例がなく、ナチス・ドイツの言論弾圧をもしのぐ悪質さでした。禁止事項の「皇室の尊厳の冒涜」「安寧秩序の妨害」「風俗の壊乱」の定義も曖昧で、いかようにも解釈でき、好き勝手に運用できるのも大問題でした。極端な話、「こいつ気に入らない」となれば、これらの法律で陥れることもできました。これらの悪法が、出版界を縮み上がらせ、当局から目をつけられないように、無難であたり触りのない表現へと表現者を導きました。伏字は、そんな状況下に、出版界が自己防衛のために編み出したものです。 そして、アジア太平洋戦争を始める1年前(昭和15年)、さらなる出版統制を目指し、内閣、外務省、陸軍省、海軍省、内務省、逓信省などの情報管理部門が一元化して統制官庁「情報局」が誕生。検閲・統制のほか、マスコミ・文化・芸能に
当地(東京都大田区大森)に住んでいた井上司朗(37歳頃)は「情報局」の第五部第三課(後の文芸課)の課長として出版界に大きな影響力を持ちました。秋声の『縮図』への圧力にも井上の判断が含まれたことでしょう。名著『たった一人の山』(浦松
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |