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井上司朗の『証言・戦時文壇史』を読む(叱られる理由)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

著者・井上司朗は、この本『証言・戦時文壇史』で、文芸評論家・平野 謙をこっぴどく叱る。本が出たのは昭和59年で、平野はすでに故人である。が、井上の怒気は収まる様子がない。章の見出しからして「忘恩ぼうおんやから平野 謙を弔う」である。 コ・ワ・イ。

戦時中、「情報局」という機関があった。各種情報を “戦時下にふさわしいもの”に指導した部署で、つまりは言論統制機関である。どんな作家先生も「情報局」のお墨付きがなければ出版がままならない時代だった。「情報局」 “様々” だったのだ。

著者の井上は、その「情報局」で、文芸課の課長として文壇全体に影響力をもった。そして、平野は同じ「情報局」の井上の下で働いた。平野は当地にあった井上の家(東京都大田区南馬込一丁目)まで訪ね、5回にわたって井上に懇願。その熱心さに井上の心も動き、ポストに空きはなかったが平野の採用に尽力した。平野井上の世話になったのだ。

話が複雑になるのは、太平洋戦争が終わって民主主義の世になってから。 戦中は “様々” だった「情報局」が一転して、民主主義や平和主義を弾圧した “けしからん部署” となる。 「情報局」の関係者らは戦争協力者とされ、ことに井上はその中心人物だったことから、世論からもむち打たれた。

一方、平野は、途中で「情報局」を退いたこともあるが、戦後は民主的な文芸評論家として文壇で影響力を持つまでになる。文壇における井上平野の影響力の逆転。これは歴史の流れでどうしようもないこと、否、真っ当なことだろう。だが、井上がどうしても「平野許しがたし」 と思うのは、平野が積極的に「情報局」の井上を鞭打つ側に回ったからなのだ。平野も「情報局」にいた頃は、戦争を推進する側の発言をしていたが、それには一切ふれないで、「情報局」時代の恩人である井上の言行をちくちくと非難する文章を発表した。 戦後、平野は次のようなことを書いている。

・・・まだ井上が一情報官だった頃、或る小さな短歌雑誌が逗子八郎〔井上司朗のこと〕の歌をケナしたらしい。カンカンになった井上情報官が電話で紙の配給をへらすとか発行停止にするとかいってオドカしたものらしい。その雑誌の責任者と称する一見土建屋ふうの和服姿の男が夫人(?)同伴で現われた。井上情報官の越権をなじり、大論争となった。・・・(中略)・・・その論争に於て窮地に追いつめられた井上情報官は、激昂のあまり『キサマのようなゴロツキとは問答無用、宮城の前で、真剣勝負をしよう』と口走り、それもチャンと筆記されてしまった。結局井上司朗の越権沙汰と官吏服務令(?)違反の言動との動かぬ証拠を押えられて、井上にかわって当時課長だった上田海軍中佐が謝罪することによって落着した。・・・(平野 謙「情報局について」より ※『証言・戦時文壇史』(井上司朗)からの孫引き)

この文章について井上は、「男女が来訪したこと」と「(井上が)宮城前で真剣勝負をしようと言ったこと」以外は全て虚としている。同じ文芸課の部屋の隅にいた平野だが、二人と井上とのやり取りの詳細は分かる訳もない。井上は二人が関係する短歌雑誌を見たこともなく、よって、それに悪口を書かれて意趣返しをした事実もなく、第一、井上がいる文芸課には用紙配給をコントロールする権限はなく、井上は二人に出版課に行くことを勧めたぐらいなのだ。真剣勝負を申し出たことについては、二人が紹介者の名前を出して圧力をかけてきて、井上が主宰している短歌雑誌(「短歌と方法」)を伝統破壊であると批判、さらには、杖(井上は仕込み杖と思ったらしい)で床を突くといった威嚇までされて、その言葉のなったと説明する。

また、別のところで、平野は、

・・・人はどう思っているか知らないけれど、私が情報局第五部第三課につとめたのは、ひとつの偶然だった・・・(平野 謙「アラヒトガミ事件」より ※『証言・戦時文壇史』(井上司朗)からの孫引き)

と書いた。井上に5回にわたって懇願し、「情報局」入りを果たした人の言葉である。井上の考えに同意できない点も多々あるが、井上が怒る気持ちはとってもよく分かる。

戦後、文芸評論家として活躍するようになる平野にとって、戦前戦中の2年半(昭和16年1月-昭和18年6月)「情報局」に身をおいたことは汚点となったことだろう。「情報局」そのものを批判すれば同じ穴にいた自分にも累がおよびそうだ。それで、井上を攻撃し、自分は違いますよ、と“免罪符”を得ようとしたのではないかと井上は分析する。

戦後、戦争責任を追及するブームがあり、それは、いかにして自分は戦争責任を逃れるかのブームでもあり、その一つの手法として、先手をうって誰かを攻撃するというのもあった。戦中、戦争に反対しなかった(できなかった、知らなかった、騙されたと思っている)人に戦争責任はないのかといった問題もある。

そうそう、井上平野を攻撃して“免罪符”を得たわけではないですね?


『証言・戦時文壇史』 について

井上司朗『証言・戦時文壇史 〜情報局文芸課長のつぶやき〜 (昭和裏面史〈2〉)』

太平洋戦争時、「情報局」に身をおいた井上司朗の著作。昭和59年(81歳)、 「人間の科学社」から発行された。昭和56年頃までに政治雑誌「月刊時事」(月刊時事社)に書かれたエッセイをまとめたもの。


井上司朗について

芥川龍之介 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典 :『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』
井上司朗  ※出典:『証言・戦時文壇史』 (井上司朗

新短歌運動を推進
明治36(1903)年、東京で生まれる。「立教中学」で吉田甲子太郎の教えを受けた。旧制第一高等学校の3年間は主席。所属した文芸部には同期に堀 辰雄、一期上に神西 清、後輩に高見 順がいた。「校友会雑誌」に小説を掲載したこともあった。一高短歌会で短歌創作を始める。定型短歌から出発して、後に非定型短歌を作る。 大正14年(22歳)刊行の 『現代抒情歌選』の編集にもあたった。東京帝国大学政治科を卒業。昭和4年(26歳)、逗子八郎の名で短歌誌「短歌と方法」を創刊、新短歌運動の旗手となる。同人に久保田正文もいた。戦時下に廃刊し、定型短歌に戻る。作品集に『山のこゝろ』(昭和13年。35歳)、 『 雲烟うんえん 』 『山かば』(昭和16年。38歳)、 『 八十氏川やそうじがわ 』(昭和19年。41歳)などがある。

「情報局」の要人として言論統制にあたる
安田銀行を経て、昭和14年(36歳)、「内閣情報部」の情報官となり、その後「情報局」の第五部第三課(のちの文芸課)の長となり文壇に影響力をもった(後に大蔵省監督官)。 そのため戦後、「権力の手先きとして暴威をふるっていた」(中島健蔵)などと非難される。 徳富蘇峰大仏次郎、吉川英治らとの親交は、「情報局」時代のつながりからか。敗戦前に「情報局」から大蔵省などに転じ、それらも全て辞して後楽園スタジアムの重役になっていたので公職追放令の対象にならなかったようだ。

戦後、後楽園スタジアムの取締役、ニッポン放送総務局長、監査役(昭和29年のニッポン放送の創立に参画)などを歴任。昭和57年(79歳)からは逗子開成高校の講師もやった。平成3年、88歳で死去。

井上司朗『雲烟(山岳歌集)』(河出書房)
井上司朗『雲烟(山岳歌集)』(河出書房)

当地と井上司朗

昭和16年3月ごろには当地(東京都大田区南馬込一丁目45map→あたりか)に住んでいた。 平野 謙が「情報局」入りを希望して訪ねたのもこの家のようだ。

作家別馬込文学圏地図 「井上司朗」→


参考文献

●『証言 戦時文壇史』(井上司朗 人間の科学社 昭和59年発行)P.1-52、P.57-58、P.91 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.99-100


参考サイト

北海学園人文学会 第1回例会 発表要旨/歌人・逗子八郎(井上司朗)研究 ~新短歌運動と言論統制のはざまで~(田中 綾)※PDFファイル→ ●逗子開成中学・高等学校/ニュース/校史余滴 第八回 校歌制定→ 井上は東京帝国大学文学部国文科在学中(後に東京帝国大学法学部政治学科に入り直している)より、逗子開成中学校の講師を務め、校歌も作詞した ●小関康幸のホームページ/コーヒーブレイク/・情報局という呼称(1)→ ・(2)→ ●YamaReco/nomoshinさんのHP/日記/最近読んだ山の本「たった一人の山」→ ●ウィキペディア/・平野 謙(評論家)(令和2年5月3日更新版)→ ・逗子八郎(令和2年1月19日更新版)→

※当ページの最終修正年月日
2020.7.28

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