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昭和30年2月17日(1955年。 坂口安吾(48歳)が脳出血で死去しました。 安吾には長篇の推理小説が2つあって、1つは江戸川乱歩が「日本探偵小説史上の画期的名作」と讃え、映画にもなった『不連続殺人事件』(Amazon→)で、もう1つが『復員殺人事件』。後者は、昭和24年(安吾43歳)雑誌「座談」に連載中、同誌が廃刊になって中断、そうこうする内に、安吾が死去し、未完成となりました。 安吾が死去して2年した昭和32年、ある座談会で
昭和32年、「宝石」に安吾の原稿を連載し、その後を高木が4号にわたって書き、2号休んで読者から犯人当てのアンケートを取ったあと、昭和33年6月号に最終回を掲載、 完結させました。安吾は『復員殺人事件』とタイトルをつけましたが、敗戦後10年以上たっており、「復員」という言葉の旬が過ぎたとの理由で、小説のキーワードとなる「聖書」(マルコ伝第八章 WordProject→)の言葉から『樹のごときもの歩く』とされました。 当地の本門寺(東京都大田区池上一丁目1-1 map→)の
国枝史郎の『
未完作を書き継ぐ(作り継ぐ)といえば、モーツァルトの「レクイエム」も、モーツァルトの死後、弟子のジュースマイヤーが補筆完成したそうです。モーツァルトは臨終の際も「レクイエム」のティンパニーのパートを表そうとしていたそうですが、14曲中モーツァルトが完成しえたのは1曲目のみなんだそうです。ジュースマイヤー版は批判も多く、バイヤー版、モーンダー版など別の版もあるようです。 樋口一葉の『 未完が惜しまれ、そして、その「未完作」が他の者のイマジネーションを引き出し、“完成”に至ったケースは他にもいろいろありそうです。
健康上の理由や死によって未完となった作品は、それこそいくらでもあるでしょう。多くの作家が、最後まで作品にしがみつき、しかし、病に倒れ、事故に遭って、「未完作」を残しました。 長谷 健(53歳)は当地の池上(東京都大田区)に住んでいましたが(昭和28年までは火野葦平と同居)、昭和32年、東京都調布市に「銀杏庵」を新築、そこで北原白秋三部作の最終巻『帰去来』に取り組み始めていました。ところが1ヶ月ほどのちの同年(昭和32年)末、ペンクラブの忘年会の帰途、交通事故にあって帰らぬ人となります。『帰去来』の原稿は少しは残っているのでしょうか? カミュも不可解な自動車事故で46歳で世を去っています。事故現場の鞄から大学ノートに記された未完の自伝的小説が出てきました。『最初の人間』というタイトルで出版されています。 無念の死を遂げた知り合いの近衛文麿のことを書かねばと山本有三は永らく思っていたことでしょう。そして、ようやく機が熟したとき、山本は86歳になっていました。書き上げるだけの時間はありませんでした・・・ 山本の近衛文麿伝(『濁流』)は「毎日新聞」に41回まで連載。夏目漱石の『明暗』も「朝日新聞」に連載され188回で途切れました。
大正7年、プロコフィエフ(27歳)が、当地(東京都大田区山王三丁目)で『罪深い情熱』という短編小説を書いています、がこれも未完。米国へ向けての船出の日が近づいてきて気もそぞろになって執筆どころでなくなったのかもしれません。 徳田秋声の『縮図』は、「情報局」からの圧力がかかって、新聞連載の80回目で打ち切られました。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |