土屋庄三郎は、武田信玄が治めていた頃の甲府の侍だ。年は二十歳
。 由緒ある家柄だ。 4歳の頃、父母が行方知らずになってからはずっと孤児である。
ある日、庄三郎は、一枚の「血のような色の布」と出会う。 その布は、富士山麓の
本栖湖
(山梨県南都留郡富士河口湖町〜南巨摩郡身延町 map→)の湖底の城「纐纈
城」で、人の生き血によって染められたものだという。庄三郎はその布(「血」)に導かれて、甲府の町から「纐纈城」へと誘われるのだった。
かたや「纐纈城」では、奇病に冒され鉛色の仮面を被った城主が、 望郷の念にかられて、故郷の甲府を目指す。城主の病は類のないもので、彼が触れるものはことごとく
爛
れる。彼が身にまとう纐纈布は闇夜でも怪光を放ち、彼は火柱のようになって巷を駆けていった。行く先々で悲劇をまき散らしながら・・・
・・・花嫁の行列が通っていた。 甲府城下の夜であった。提灯の火が輝いた。沢山の人達が花嫁を囲み、さざめき
乍
ら歩いていた。
行列は辻を曲ろうとした。 と、忽然
火柱が立った。 火柱のてっぺんに顔があった。人達は八方へパラパラと散った。残ったのは花嫁ばかりであった。
顫え乍ら花嫁は立っていた。
その時、火柱の主が云った。
「故郷の人。……祝福あれ!」
そうして花嫁へ手を触れた。それは愛撫の手であった。
そこで花嫁は恐る恐る云った。
「神様、ありがとう存じます」
火柱の主は辻を曲がり、深紅の光は見る見る消えた。
ふたたび行列は進むことになった。
と、花嫁が呻くように云った。
「体を虫が這
うようだ。」 それから更に花嫁は云った。「ああ体中が燃えるように熱い。……ああ、両肘が
痒
くなった。……ああ膝頭が痒くなった。……皆様、どうしたのでございましょう。……眉の上が痒くなりました。……むくんだようでございましょう。……おお眼が変になりました。……体から何か垂れるようです。……おおおおどうしたのでございましょう!……小指と薬指とが曲って
了
いました。……延ばそうとしても延びません。……痛い痛い体中が! おおおお足が動かなくなった。……体がだるくてなりません。……足が引き
釣
ってなりません。……指が! 指が! 十本の指が!
鉤
のように曲って了いました。……眼をつむることが出来なくなった。……ああ
厭
なものがヌラヌラする。……。」
・・・(中略)・・・二町あまりも行った時、急に前のめりに昏倒した。
忽ち混乱が湧き起った。一人の老人が花嫁を抱いた。無数の提灯が差し付けられた。
その時、花嫁の綿帽子が取られた。
そこには花嫁の顔はなく、・・・・(『神州纐纈城』より)
城主は「地」(故郷)に導かれていくようだ。しかし、反対方向を目指す二人(庄三郎と仮面の城主)には、一体どういった関係があるというのか?
次から次へと展開する幻想と猟奇、美と醜、光と影のコントラストにため息されたい。
『神州纐纈城』 について
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国枝史郎『神州纐纈城 (河出文庫) 』 |
石川 賢『神州纐纈城(上) 』((講談社)。左作品の漫画化。織田信長の登場によって完結するか!? |
国枝史郎の代表的伝奇小説。 作者38歳の時の作品。大正14年~翌15年10月、雑誌「苦楽」に連載された(挿絵:小田富弥)。「苦楽」の経営難と国枝の健康上の理由で未完に終わる。幻の書とされてきたが、昭和43年、桃源社が復刊、反響を呼ぶ。
武田信玄、
快川
和尚
(寺が信長の焼討ちにあった際、「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言いながら超然と焼死)、塚原
卜伝
(伝説的な剣豪)など歴史上の人物も登場し、大きなスケールで進行する。
『宇治拾遺物語』の第13巻の10「慈覚大師纐纈城入り給ふ事」を下敷きにしている。
入唐八家
の一人・円仁(慈覚大師)が唐に渡ったところ数々の苦難に遭遇し、「纐纈城」に逃げこむ下りがある。そこでも人の血で布を染めており、また、水門から脱出したという下りも『神州纐纈城』を思い起こさせる。
レオニード・N・アンドレーエフの『ラザルス』(岡本綺堂訳あり 青空文庫→)の影響も見られるという。
■ 作品評:
・「芸術的にも、谷崎潤一郎氏の中期の伝奇小説や怪奇小説を凌駕するものであり、現在書かれている小説類と比べてみれば、その
気稟
の高さは比較を絶している」(三島由紀夫)
・ 「『大菩薩峠』(中里介山)などと並ぶ 「三大大衆文学」 の一つ」(埴谷雄高)
・ 「怪奇、幻想、エロ、グロ、ナンセンス、はては宗教観、宇宙観の中で、ありとあらゆる人物が複雑に絡み合い、発展してゆくエンターテインメント時代小説。/自分の原点は 『神州纐纈城』にあったのではと、つくずく考えさせられる」(石川 賢)
国枝史郎について
松竹座の座付き作家。バセドー氏病を発症
明治20年10月10日(1887年)、長野県茅野
(map→)で生まれる。県立長野中学校で剣道に熱中。中学2年で3~4段の実力があった。友人と山で盛大なたき火を作ったり、喧嘩して退学処分になったりの“問題児”で、東京在住の三兄の三郎に引き取られ、東京本郷の「郁文館
中学」(東京都文京区向丘二丁目19-1 map→ site→)に通った。明治43年(23歳)、早稲田大学英文科に入学。 演劇に関わり、戯曲『レモンの花咲く丘』を書いて成功、大正3年(27歳)、大阪朝日新聞社に招かれて、大学は中退。関西歌壇に接近。大正6年(30歳)、新聞社を退社して松竹座の座付き作家になった。 大正9年(33歳)、バセドー氏病悪化のため帰郷する。
伝奇小説の名作を生む
療養を兼ねて、木曽福島、岐阜の中津川、名古屋を転々とする。作家活動を再開。『
蔦葛木曾棧
』(大正11年 35歳)、『神州纐纈城』(大正14年 38歳)など伝奇小説の名作を残す。 昭和2年(40歳)、同人らと耽奇社
を設立。複数のペンネームを使い分けて推理小説や探偵小説なども書く。
昭和2年(40歳)、健康のために習い始めたダンスに熱中、昭和11年(49歳)、ダンス教師の資格を取得してダンス教習所を開いた。 昭和14年(52歳)には、東京京橋に喫茶店「ロゼッタ」を開店。昭和15年、ヒットラーを「天才」と賞賛する。
昭和18年4月8日、喉頭ガンによって死去。満55歳だった。 墓所は、故郷の長野県茅野市の宗湖寺(
)。
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国枝史郎 『蔦葛木曽棧(上) (大衆文学館) 』(講談社) |
国枝史郎『伝奇ノ匣
〈1〉 (学研M文庫)』。『八ヶ岳の魔神』『レモンの花の咲く丘へ』を収録 |
当地と国枝史郎
昭和8年(46歳)、 名古屋市外の新舞子から当地(現在の東京都大田区中央一・四丁目あたり、南馬込三・四丁目あたり、山王三丁目あたりにあった「永楽荘」(染谷孝哉によると「闇坂
を登ろうとして頭のうえをふり仰ぐと、すぐ目に入るアパート」)に越してきて晩年の9年間住む。
■ 作家別馬込文学圏地図 「国枝史郎」→
参考文献
●『神州纐纈城』(国枝史郎 桃源社 昭和43年初版発行 昭和44年6刷参照) ※解説(真鍋元之)P.303-314 ●『神州纐纈城(上・下)』(国枝史郎 講談社 昭和51年発行)※「『神州纐纈城を読む』」(横溝正史) P.189-192 ※「解題」(八木 昇)P.193-194 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.130 ●『大衆文学大系 12』(講談社 昭和47年発行) ※解説(尾崎秀樹)と年譜 P.801-816 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』( 編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.38 ●「小説とは何か」(三島由紀夫)※「新潮(一月臨時増刊号)」(昭和46年発行)P.101
参考サイト
●青空文庫/国枝史郎/ヒトラーの健全性→ ●ウィキペディア/・円仁(令和2年11月7日更新版)→ ●日本古典文学摘集/宇治拾遺物語/巻第十三/一〇 慈覚大師纐纈城入り給ふ事(現代語訳)→
※当ページの最終修正年月日
2020.12.10
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