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大正6年11月7日(1917年。
山川 均(36歳)・ 越してきた日のことを、菊栄は次のように書いています。 ・・・子供の世話を頼むためにやっとさがし出した手伝いの婦人とともに、母の家から大森春日神社裏の借家へ私の移ったのは十一月七日、一面こがね色に波うつ田んぼのへりには彼岸花が赤く、農家の垣根に乱れ咲く菊の花にいっぱいの日の光のふりそそいでいた小春日和の昼さがりでした。この日はロシアに第二革命の起った当日として、二重に忘れられない日となりました。家はボロながら日当りは申し分なく、低い四つ目垣のそとは蓮池、その先は見渡す限り稲田で、一、二丁先の松林の向うを東海道線の汽車が走っていました。・・・(山川菊栄『おんな二代の記』より) 2人は、前年(大正5年)の2月10日、大杉 栄が開催した講演会で初めて会い、そのあと検束され保護室の前で初めて声を交わしました。9ヶ月後(大正5年11月)に結婚しますが、翌月(12月)、菊栄が結核になっているのが分かります。しかも、発病直後に菊栄の妊娠が分かり、子どもも母体もあぶないと医師に言われます。それを何とか切り抜けて、長男(振作)を出産。 3人で最初に住んだのが当地の春日神社裏でした。 明治の青年の多くが、同時期に西洋から入ってきたキリスト教と社会主義思想の両方から影響を受けました。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分け与えよ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(新約聖書「ルカによる福音書」より)とするキリスト教と、平等で公正な社会を目指す社会主義とは目指すところが似ており、両方は違和感なく受容されたのです。のちに社会主義者・共産主義者・アナキストと呼ばれる人の多くがキリスト教の影響を受けています。山川 均もそうでした。 17年前の明治33年、友人と発行していた雑誌「青年と福音」に、キリスト教的な立場から「人は愛によって自由に結婚すべきであり、政治的な結婚は無形の暴力による 幕末に欧米列強からの圧力に屈せざるを得なかった日本は、明治に入り、欧米列強と肩を並べうるよう、富国強兵策をとります。旧幕府や旧諸藩の鉱山や工場を引き継いで、欧米からの設備を投入、外国人技師の指導のもと、近代産業の育成を急ぎ(殖産興業)、急速に資本主義的様相を帯びてきました。鉱業・工業は大規模化し、その生産第一主義が、環境と周辺の生活を破壊(足鉱銅山鉱毒事件もその一つ)、資本家による労働者からの搾取と抑圧の構図も明らかになってきます。
現場を支える幾多の労働者が、企業の不公平・不公正な仕組みに気づき、自らの権利に目覚め、労働現場の改善を求める労働争議・労働運動が盛んになり、社会主義者(共産主義者・アナキストを含む)がそのリーダーとして活躍するようになってきます。 山川 均も当地(東京都大田区)に住み始めた翌大正7年に、荒畑寒村と労働組合研究会を作り、冊子「労働者」を発行(その記事が各地で頻発した米騒動を煽動しているとして山川 均は4ヶ月間下獄。4度目の下獄か)。山川均が実家に心配をかけないようにと“偽手紙”を出したのはこの時です。 大正8年頃から、山川夫妻の家には、山口
山川 均と菊栄の出会いが大杉 栄が開催した講演会だったことは上述しましたが、夫妻が当地に越してきてからも、大杉 とそのパートナー・伊藤野枝が山川邸に遊びに来て泊まっていくこともありましたし、アナキスト村木源次郎も山川邸に出入りしています。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |