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飛び立つ女たち(大正11年4月12日、宇野千代、上京する) (大正11年4月12日、宇野千代、上京する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北海道から東京に出てきた宇野千代 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『馬込文士村ガイドブック(改定版)』(東京都大田区立郷土博物館)


大正11年4月12日(1922年。 宇野千代(24歳)が、札幌から東京に出てきます。 夫には 「東京へ着いたら、すぐ折り返し帰って来る」と告げ、洗濯ものや洗いものもそのままにして出てきました。宇野は思ったらすぐに動く人でした。

前年の大正10年、宇野(23歳)は 『脂粉しふん の顔』 で「時事新報」の懸賞小説で3,120編中1位になりました。2位が尾﨑士郎で、5位が兼光左馬(横光利一)でした。その時の賞金が200円。昭和元年頃の1円を現在の3,000円とすると60万円ほどでしょうか。その札束のずっしりした感じに感銘を受けてか、宇野はその後、昼夜分たずに書くようになりました。

次作の『墓をあばく』 がたちまち書き上がりました。それを 宇野は「中央公論」 の滝田樗陰ちょいん(39歳)に送ります。 宇野は北海道に渡る前の18日間、東京本郷の燕楽軒えんらくけん で給仕をしてましたが、その時、店の向かいの中央公論社から滝田は毎日食事に来て、いつも50銭のチップを置いていってくれたんだそうです。 そんなよしみから滝田の顔が浮かび、彼に原稿を送ったようです。今でいえば、2週間ほど働いたアルバイト先の親切な先輩にアプローチしたといった感じでしょうか。

宇野は『墓を発く』にも自信がありましたが、滝田からは何の連絡もありません。しびれが切れ、宇野は様子を聞きに東京まで出てきたのです。その時のことを、宇野は次のように書いています。

・・・東京へ着くと、私は真っ直ぐに、本郷の中央公論社へ行った。 滝田樗陰は社にいた。三階まで駆け上がったので、私は息が切れた。「あの、あの、私のお送りした原稿は、着いてますでしょうか。もう、お読みになって下すったでしょうか」と言うその私の言葉も終らない中に、樗陰は、そのときすぐ目の前に積んであった、六、七冊の雑誌の一冊を手にとって、ばさりと、私の眼の前に投げ出し、「ここに出てますよ、原稿料も持って行きますか」と、まるで怒ってでもいるように言ったものであった。
 忘れもしない、それは大正十一年の四月十二日であった。「中央公論」の五月号に、私の小説 『墓を発く』 が載っている。 私はぶるぶると足が慄えた。・・・(宇野千代 『生きて行く私』 より)

宇野が「飛び立った瞬間」でしょう。その時の原稿料は懸賞小説で得た額のおよそ2倍の366円。現在の100万円は裕に越えるでしょう。宇野滝田に礼を言うのも忘れ、嬉しさのあまり絶叫したいのを堪えて表に飛び出します。彼女はもう、夫のいる札幌へは戻りませんでした。

辻村もと子

家庭の外での自己実現も考える女性は、先立つものが手に入った時、または先立つものの目処が立った時、飛び立つことができます。辻村もと子(34歳)も、昭和15年7月、11年間連れ添った東京荻窪の夫との家を飛び出しました。文学上の先輩・村岡花子(47歳)が見つけた当地のアパート・大野荘(東京都大田区中央二丁目 1。現在、マンション「MIMOZA」「メイヒルズ若山」が建っているあたり Map→ Photo→)で一人暮らしを初めます。東大経済学部を出て保険会社に勤める夫は何でも経済の尺度で考える人で、辻村の文学的情熱など全く理解しようとしませんでした。もはや話し合いの余地などなく、思うがままに書きたいとの一心で、辻村は家を飛び出したのです。 家から飛び立つことこそが最大の難関で、持って出たのは、衣類をつめた 行李こうりと、1組の布団と、ダンボール箱につめた本と、その他必要最小限の日用品をつめたトランクのみ。嫁入り道具の箪笥たんす も、実父が建ててくれた家も、土地の権利書(5 町歩 ちょうぶ (1町歩で3千坪。5町歩だと東京ドームほどの広さか。父・直四郎は北海道 岩見沢 いわみざわ Map→の開拓で大きな功績があった)などもみな置いてきたとのこと。

小説一つで生きて行く覚悟が辻村を強くしました。長年思ってはいても着手できなかった長編小説の構想(北海道開拓の先駆けだった父・直四郎の若き日を描くこと)を形にし始めます。完成したら一番読ませたかった父は、辻村の離婚後9ヶ月して死去、自分の離婚が父に与えただろうショックを思い辻村は心を痛めました。しかし、めげることなく、ペンを執りつづけ離婚後2年して(昭和17年)、初の長編『馬追まおい 原野』が完成します。神近市子村岡花子らが出版記念会を開いてくれました。辻村は同作で第一回「樋口一葉賞」を受賞します。

・・・なにもかにもかなぐりすてたいま、体あたりでぶつかってゆくばかりだ。傷ついてめちゃめちゃになったところで、悔いるこころはさらさらない。
 動いている。動いている。疾走している。勝手にしろ。私はどっかり坐ったぞ。自分もせいいっぱいに生きているぞ。ここまでくれば悪あがきはしない。最後のぎりぎりのところまで文学ときり死にをする覚悟だ。(辻村もと子「ほん音」より)

北川千代

北川千代は2度も3度も飛び出し、そして飛び込んでいます。まずは大正4年(21歳)、家族の強い反対を押し切ってプロレタリア作家の江口 かんに嫁ぎました。辻村と同様、家を飛び出すことこそが大難関だったようで、ほとんど式服だけで家を飛び出しています。 大正10年(27歳)、日本で最初の婦人社会主義団体「赤瀾会せきらんかい」に身を投じ、翌大正11年(28歳)には、江口と別れて、足尾銅山の坑夫7千人のストライキを指導した 高野松太郎と行動を共にするようになりました。東京三河島の長屋に起居したり、当地(東京都大田区)で「高野養兎研究所」を開いたり、いろいろやりながら、生活の実感、執筆の実感をつかんでいきます。最初のすみか でくすぶっていたら、いわゆる「北川千代」はありえなかったことでしょう。

北川千代 柳原白蓮 江口章子

伊藤野枝(21歳)が辻 潤(31歳)の元を飛び出したのが大正5年4月で、柳原白蓮(36歳)が伊藤伝右衛門(60歳)の元を飛び出したのが大正10年10月で、江口章子あやこ (32歳)が北原白秋(35歳)の元を飛び出したのが大正9年5月で波多野秋子(29歳)が夫の元を去ったのが大正12年6月で、上田稲子(29歳)が萩原朔太郎(43歳)の元を去ったのが昭和4年・・・。互いの理解があれば飛び出す必要もないのでしょうが、それが難しいときは、その決断も必要でしょう。そのためにも、男性がそうであるように、女性も一人でも生きていける力と覚悟を身につけた方がいいのでしょうね?

『流転の歌人 柳原白蓮 〜紡がれた短歌とその生涯〜』(NHK出版)。写真と短歌でたどる白蓮の生涯 濱口桂一郎『働く女子の運命 (文春新書)』
『流転の歌人 柳原白蓮 〜紡がれた短歌とその生涯〜』(NHK出版)。写真と短歌でたどる白蓮の生涯 濱口桂一郎『働く女子の運命 (文春新書)』
伊藤春奈『「姐御」の文化史 〜幕末から近代まで教科書が教えない女性史〜』(DU BOOKS) 堀内真由美『女教師たちの世界一周 〜小公女セーラからブラック・フェミニズムまで〜 (筑摩選書)』
伊藤春奈『「姐御」の文化史 〜幕末から近代まで教科書が教えない女性史〜』(DU BOOKS) 堀内真由美『女教師たちの世界一周 〜小公女セーラからブラック・フェミニズムまで〜 (筑摩選書)』

■ 馬込文学マラソン:
宇野千代の『色ざんげ』を読む→
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
辻村もと子の『馬追原野』を読む→
辻 潤の『絶望の書』を読む→
北原白秋の『桐の花』を読む→

■ 参考文献:
●『生きて行く私(中公文庫)』(宇野千代 平成4年発行)P.97-102、P.110-114 ●『評伝 尾﨑士郎』(都築久義 ブラザー出版 昭和46年発行)P.94-95 ●『宇野千代(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年発行) P.16-17 ●『辻村もと子 人と文学』(加藤愛夫 いわみざわ文学叢書刊行会 昭和54年発行)P.164-169、P.202、P.366-367 ●『覚めよ女たち ~赤瀾会の人びと~』(江刺昭子 大月書店 昭和55年初版発行 昭和56年発行2刷)P.201-211  ●『北川千代 ・ 壷井 栄(日本児童文学大系22)』(ホルプ出版 昭和53年初版発行 昭和54年発行2刷)P.456-459、P.461 ●「宇野千代の東京を歩く」東京紅團→ ●「中央公論社の足跡を歩く」東京紅團→

■ 謝辞:
・ 当サイトの創設時よりしばしばお訪ねくださっている東京都大森貝塚保存会のNY様より、このページに限らず、情報のご提供、誤記のご指摘などご指導いただいております。ありがとうございます。

※当ページの最終修正年月日
2024.4.12

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