|
|||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||
|
宇野千代。東郷青児と住んだ淡島(東京都世田谷区 Map→)の邸宅で ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『宇野千代(新潮日本文学アルバム)』
昭和4年3月30日(1929年。 東郷青児(33歳)が海軍少将の令嬢と、当地(東京都品川区大井六丁目)の自宅寝室で、ガス心中を図りました(未遂)。東郷は有名な新進画家だったのでマスコミが大きく取り上げました。 かたや、宇野千代(32歳)は、その頃、 『 ・・・「もしもし、こちらは宇野千代ですけれど、いま書いている小説の一こまに、ガスで情死する男女のことを、どうしても書かなくてはならないんです。それで、ほんとにお願いしにくいことですけど、そう言うさし迫った場合に男はどうするものか、電話で話して頂けないでしょうか」「え、電話でそれを話すんですか。それは無理ですよ」。屈託のない東郷の声が返って来た。 2人は「白夜」で会い、そのまま同棲。まずは心中未遂のあった品川区大井の家に住んだようです。蒲団には心中のおりの血痕がまだこびりついていて、そのガリガリの蒲団で寝たようです。宇野はそれを気味悪いと思わなかったとか! 『
宇野の「すぐ動く」は実に鮮やかで、滝田樗陰に送った原稿の返事がないとの懸念が生じた刹那、北海道の家の洗い物もそのままにして東京に出て来て、滝田を訪ね、初めての大金(原稿料)が手に入るや、実家の家族を喜ばせるために山口県岩国に直行です。 「すぐ動く」ことが望む結果に結びつくとは限らず(時には危険が伴うことも)、宇野も多くの出会いと同じくらい多くの別れも経験していきます。涙をなるべく避けて穏やかに生きていくか、それともたくさん涙を流しながらも、ここぞと思う時に、自らをその状況に投げ入れていくか、どちらが良いとは言えませんね。あくまでも本人次第。
山岡鉄舟が徳川側の使いとして東征軍のただ中に飛び込んでいけたのも、「すぐ動く」ことができる胆力があったからでしょう。 昭和6年、日本の軍部が中国での侵略行為を拡大し、それに政府が引きづられているのを憂慮して、芦田 均は、20年以上も続けてきた外交官の職を投げ打って、政治家に転身します。その決断・行動の早さに驚かされます。戦争を美化したり、他国民を誹謗したり差別したりするのは
林 芙美子が昭和6年から7年にかけて単身、片道切符だけを手にしてシベリア鉄道で乗り、パリに渡ったのも、計算づくではなく、すぐ動いた結果と思われます。 三島由紀夫が東大全共闘のただ中に単身飛び込んでいったのも然り。
日常は「すぐやった方がいいこと」の連続とも言えます。ヒルティ(スイス。政治家・法学者・文筆家。1833-1909)が次のように書いています。 ・・・まず何よりも肝心なのは、思いきってやり始めることである。仕事の机にすわって、心を仕事に向けるという決心が、結局一番むずかしいことなのだ。一度ペンをとって最初の一線を引くか、あるいは 「すぐやろう」を謳った本は腐るほど出てますが、この一冊で十分でしょう。名著です。ヒルティの「すぐやろう」の文章に接した三浦綾子は、長い間やろうやろうと思いながらもできなかった部屋の大掃除を、突如、真夜中に始めたそうです(笑)。
ボブ・マーリーの「Work」という歌には、「Now」(今)という掛け声が小気味よく入ります。他にもボブの歌には、「Now」がけっこう入りますね(「Stir It Up」「Natty Dread」「Trench Town Rock」など)。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |