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大正12年3月16日(1923年。 「東京朝日新聞」が、尾﨑士郎(25歳)の当地(東京都大田区)入りを報じています。現在の京浜急行「大森海岸駅」(東京都品川区南大井三丁目32 Map→)近くの宿に落ち着いたようで、前年(大正11年)から宇野千代(25歳)と同棲していたので、彼女も一緒だったでしょうか。 2人はこの時点では同年齢ですが、宇野が明治30年生まれで尾﨑より1つ上。当時は女性が年上というだけで“大珍事”だったようで、尾﨑は新聞で「若い燕」(9年前(大正3年)、平塚らいてふが5歳年下の画学生・奥村博史と事実婚。奥村が書簡で自分のことをツバメにたとえた)とからかわれています。 「大森海岸駅」近くの宿を出た2人は、その後当地(東京都大田区)を転々とし、 見かねた「都新聞」学芸部長の上泉秀信(26歳)が、自身が借りている家の隣(東京都大田区南馬込四丁目28-11 Map→)を2人に紹介しました。 ・・・私たちはそこへ、家とも言えない、おかしな家を建てた。大根畑の中にあった農家の納屋を、ただ同然の金で買いとり、上泉の借地の続きに、ほんの五十坪(165平方メートル)ほどの地所を借りて、そこまで納屋を
宇野には北海道に残してきた夫がおり、2人の住まいを“愛の殿堂”と「国民新聞」は皮肉りました。あらゆる噂がそこから発信されるので“馬込放送局” とも呼ばれます。関東大震災から2年した大正14年、JOAK(NHKラジオ第一放送)が
人が人を呼んで、毎夜の文学談義、雀卓を囲んだり、ダンス会もよく開かれました。そういった楽しげな“馬込文士村”でしたが、4年ほどすると影がさしてきます。 昭和元年暮、結核を患った梶井基次郎(25歳)が療養先に選んだのが川端康成(27歳)のいる静岡の湯ヶ島でした(川端は19歳頃から湯ヶ島によく逗留した)。すると、梶井の病気見舞いがてら「青空」の同人の三好達治(26歳)や淀野隆三(22歳)らもやって来ます。昭和2年には、川端のすすめで尾﨑(29歳)と宇野(29歳)、広津和郎(35歳)、萩原朔太郎(40歳)らも湯ヶ島入り、ここにもコミュニティーが生まれました。“湯ヶ島コミュニティー”は、川端と梶井が人を呼んだのです。
ところが、この“湯ヶ島コミュニティー”が“馬込文士村”終焉のきっかけになります。 “湯ヶ島コミュニティー”で、梶井が宇野に熱を上げていったのです。梶井は結核を患っていましたが元気に振るまい、また、感情を隠そうとしませんでした。自身が泊まっている「湯川屋」(現在は廃業。近くに「梶井基次郎文学碑」(静岡県伊豆市湯ケ島 Map→)がたつ)から宇野が泊まる「湯本館」へ毎晩のように通って来ました。宇野は誰にも優しかったし、梶井の文学的才能にぞっこんだったので、
2人が仲良くしていれば、尾﨑は当然面白くない。尾﨑と宇野の間はすでにぎくしゃくしていましたが、梶井のことがあって尾﨑が宇野を見限ります。昭和2年9月8日、宇野を湯ヶ島において、尾﨑は一人、当地(東京都大田区)に戻ってきました。そんな尾﨑を見て、取り巻きが 「宇野がおかしい!」と盛んにやり出し、2人の間がいよいよ
翌昭和3年正月、梶井が、尾﨑や宇野や広津に会いに当地(東京都大田区)を訪れます。梶井は宇野のことはもちろん、尾﨑にも好意を持っていたようなのです。人を疑うことを知らず、拒絶されることなどには思いが及ばないのでしょうか、当地ではなんと尾﨑・宇野夫妻の家に泊まったようです。 ところが、その梶井来訪時、 衣巻省三(27歳)の家(東京都大田区南馬込四丁目31-6 Map→)で催されたダンスパーティーで、尾﨑と梶井がぶつかります。名づけて「馬込の決闘」。そのときのことを尾﨑が次のように書いています。 ・・・しかし彼が落ちつくにつれて、わたしの心は その後尾﨑は家にほとんど帰らなくなり、翌昭和4年には新しい恋人(後の清子夫人)ができ、宇野も新しい恋人東郷青児(32歳)と暮らし始めます。2人の家は主がいなくなり、求心力を失った“馬込文士村”からは、次々と人が去っていきました。昭和4年には萩原朔太郎(42歳)、川端康成(30歳)、三好達治(29歳)、間宮茂輔(30歳)が去り、翌昭和5年には広津和郎(38歳)、昭和6年には牧野信一(34歳)と榊山 潤(30歳)が去ります。この昭和6年を持って、“馬込文士村”の時代が一つ終わったと言えるでしょう(この昭和6年に、山本周五郎(28歳)が当地入りし、尾﨑も当地に戻って来て、やや硬派な“馬込文士村”が復活する)。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |