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コミュニティーの誕生と終焉(大正12年3月16日、尾崎士郎が東京都大田区に来る)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尾崎士郎 宇野千代

大正12年3月16日(1923年。 「東京朝日新聞」が、尾﨑士郎(25歳)の当地(東京都大田区)入りを報じています。現在の京浜急行「大森海岸駅」(東京都品川区南大井三丁目32 Map→)近くの宿に落ち着いたようで、前年(大正11年)から宇野千代(25歳)と同棲していたので、彼女も一緒だったでしょうか。

2人はこの時点では同年齢ですが、宇野が明治30年生まれで尾﨑より1つ上。当時は女性が年上というだけで“大珍事”だったようで、尾﨑は新聞で「若い燕」(9年前(大正3年)、平塚らいてふが5歳年下の画学生・奥村博史と事実婚。奥村が書簡で自分のことをツバメにたとえた)とからかわれています。

「大森海岸駅」近くの宿を出た2人は、その後当地(東京都大田区)を転々とし、 見かねた「都新聞」学芸部長の上泉秀信(26歳)が、自身が借りている家の隣(東京都大田区南馬込四丁目28-11 Map→)を2人に紹介しました。

・・・私たちはそこへ、家とも言えない、おかしな家を建てた。大根畑の中にあった農家の納屋を、ただ同然の金で買いとり、上泉の借地の続きに、ほんの五十坪(165平方メートル)ほどの地所を借りて、そこまで納屋を いて来て、明かり取りの窓をつけ、三畳ほどの土間を残して、六畳の畳を入れた。原住民の住むような小さな家を建てたのであった。
 二人の寝起きするのも、書き物をするのも、食事をするのも、同じ六畳の畳の部屋だけで間に合う。焜炉こんろ は軒下に持ち出して煮炊にた きする。その最低限度の生活を、少しも不便とは思わなかった。・・・(中略)・・・どんな生活でもあれ、その家の中で始まるものを私は、 たの しい、と思うのであった。・・・(宇野千代『生きて行く私』より)

この家が“馬込文士村”の拠点となります。そこには、作家や編集者、小説家の卵やらが日々日夜を問わず訪ねてくるようになり、2人はそれを歓待。ある者は居候し、ある者は近所に住み始め、しだいに周辺に文学的コミュニティが作られていきます。

宇野には北海道に残してきた夫がおり、2人の住まいを“愛の殿堂”と「国民新聞」は皮肉りました。あらゆる噂がそこから発信されるので“馬込放送局” とも呼ばれます。関東大震災から2年した大正14年、JOAK(NHKラジオ第一放送)が 愛宕山 あたごやま (東京都港区 Map→)に開局され話題になった頃です。

人が人を呼んで、毎夜の文学談義、雀卓を囲んだり、ダンス会もよく開かれました。そういった楽しげな“馬込文士村”でしたが、4年ほどすると影がさしてきます。

川端康成 川端康成

昭和元年暮、結核を患った梶井基次郎(25歳)が療養先に選んだのが川端康成(27歳)のいる静岡の湯ヶ島でした(川端は19歳頃から湯ヶ島によく逗留した)。すると、梶井の病気見舞いがてら「青空」の同人の三好達治(26歳)や淀野隆三(22歳)らもやって来ます。昭和2年には、川端のすすめで尾﨑(29歳)と宇野(29歳)、広津和郎(35歳)、萩原朔太郎(40歳)らも湯ヶ島入り、ここにもコミュニティーが生まれました。“湯ヶ島コミュニティー”は、川端梶井が人を呼んだのです。

川端が逗留した「湯本館」(静岡県伊豆市湯ケ島1656-1 Map→ Site→)の窓より。 狩野川 ( かのがわ ) の流れが近い。川端が使った部屋も保存されている(Photo→)** 川端が逗留した「湯本館」(静岡県伊豆市湯ケ島1656-1 Map→ Site→)の窓より。 狩野川 かのがわ の流れが近い。川端が使った部屋も保存されているPhoto→

ところが、この“湯ヶ島コミュニティー”が“馬込文士村”終焉のきっかけになります。

“湯ヶ島コミュニティー”で、梶井宇野に熱を上げていったのです。梶井は結核を患っていましたが元気に振るまい、また、感情を隠そうとしませんでした。自身が泊まっている「湯川屋」(現在は廃業。近くに「梶井基次郎文学碑」(静岡県伊豆市湯ケ島 Map→)がたつ)から宇野が泊まる「湯本館」へ毎晩のように通って来ました。宇野は誰にも優しかったし、梶井の文学的才能にぞっこんだったので、 はた からは2人がずいぶん仲がいいように見えました(宇野の『 罌粟 けし はなぜ紅い』のタイトルは梶井がつけた)。

2人が仲良くしていれば、尾﨑は当然面白くない。尾﨑宇野の間はすでにぎくしゃくしていましたが、梶井のことがあって尾﨑宇野を見限ります。昭和2年9月8日、宇野を湯ヶ島において、尾﨑は一人、当地(東京都大田区)に戻ってきました。そんな尾﨑を見て、取り巻きが 「宇野がおかしい!」と盛んにやり出し、2人の間がいよいよ こじ れてきます。

翌昭和3年正月、梶井が、尾﨑宇野広津に会いに当地(東京都大田区)を訪れます。梶井宇野のことはもちろん、尾﨑にも好意を持っていたようなのです。人を疑うことを知らず、拒絶されることなどには思いが及ばないのでしょうか、当地ではなんと尾﨑宇野夫妻の家に泊まったようです。

ところが、その梶井来訪時、 衣巻省三(27歳)の家(東京都大田区南馬込四丁目31-6 Map→)で催されたダンスパーティーで、尾﨑梶井がぶつかります。名づけて「馬込の決闘」。そのときのことを尾﨑が次のように書いています。

・・・しかし彼が落ちつくにつれて、わたしの心はにわ かにいきり立ってきた。わたしは正面から彼に対してぢりぢりと攻勢をとりはじめた。わたしの表情の中からすぐに、彼も一つの感情を読みとったらしい。・・・(中略)・・・わたしはぢっと彼の顔を見た。そして眼を──すると彼の表情の中にひとすぢの軽侮けいぶ の情が、光のごとく走り去った。
「おお!」と、わたしは低く叫んで立ちあがった。胸の底で何か一つの堅い殻がぱちん!とはじけるやうな音を聞きながらわたしは右手に握りしめた煙草を火のついたままふりかざして、一気に彼の面上に叩きつけた。燃えさしの煙草は彼の額に当たって、テーブルの上に落ちた。彼は、しかし、冷やかな手つきで、今、眼の前に落ちた煙草をつまみあげた・・・(尾崎士郎『悲劇を探す男』より)

その後尾﨑は家にほとんど帰らなくなり、翌昭和4年には新しい恋人(後の清子夫人)ができ、宇野も新しい恋人東郷青児(32歳)と暮らし始めます。2人の家は主がいなくなり、求心力を失った“馬込文士村”からは、次々と人が去っていきました。昭和4年には萩原朔太郎(42歳)、川端康成(30歳)、三好達治(29歳)、間宮茂輔(30歳)が去り、翌昭和5年には広津和郎(38歳)、昭和6年には牧野信一(34歳)と榊山 潤(30歳)が去ります。この昭和6年を持って、“馬込文士村”の時代が一つ終わったと言えるでしょう(この昭和6年に、山本周五郎(28歳)が当地入りし、尾﨑も当地に戻って来て、やや硬派な“馬込文士村”が復活する)。

梶井基次郎『檸檬・冬の日―他九篇(岩波文庫)』 『社会心理学』(有斐閣)。著:池田謙一ほか
梶井基次郎檸檬レモン・冬の日―他九篇(岩波文庫)』 『社会心理学』(有斐閣)。著:池田謙一ほか
広井良典『コミュニティを問いなおす 〜つながり・都市・日本社会の未来〜 (ちくま新書)』 マルクス・ガブリエル『つながり過ぎた世界の先に (PHP新書)』。編:大野和基、訳:髙田亜樹
広井良典『コミュニティを問いなおす 〜つながり・都市・日本社会の未来〜 (ちくま新書)』 マルクス・ガブリエル『つながり過ぎた世界の先に (PHP新書)』。編:大野和基、訳:髙田亜樹

■ 馬込文学マラソン:
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→
宇野千代の『色ざんげ』を読む→
川端康成の『雪国』を読む→
三好達治の『測量船』を読む→
広津和郎の『昭和初年のインテリ作家』を読む→
萩原朔太郎の『月に吠える』を読む→
間宮茂輔の『あらがね』を読む→
牧野信一の『西部劇通信』を読む→
榊山 潤の『馬込文士村』を読む→
山本周五郎の『樅ノ木は残った』を読む→

■ 参考文献:
●『評伝 尾﨑士郎』(都筑久義 ブラザー出版 昭和46年発行)P.111-117、P.127-137 ●『生きて行く私(中公文庫)』(宇野千代 平成4年発行)P.115-126、P.136-144 ●「梶井基次郎からの便り」(おざき俵士)※「わがまちあれこれ(10号)」(編:城戸 昇 あれこれ社 平成8年発行)P.22-25 ●『宇野千代(新潮日本文学アルバム)』(平成5年発行)P.26-27、P.105 ●『馬込文学地図』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.100-105 ●『梶井基次郎(新潮日本文学アルバム)』(昭和60年発行)P.108

※当ページの最終修正年月日
2024.3.16

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