鉱山での地獄図──落盤事故。 坑道に閉じこめられた人たちを救い出すのは難しい。運良く助け出されても、不具になる者もあれば、恐怖で発狂する者もある。
しかも、人間関係がやり切れない。
会社側は存続させるという譲れない一条があるにしても、だからといって人道に反していいはずはない。
事故で働けなくなった者を切り捨てていいものなのか?
被害者を利用してうまい汁を吸うのはありか?
会社側に立つ者たちは、ためらいもなく被害者の家族を投げ倒す。
・・・所長達が見てゐると意識して、飯場頭や巡視等は猛り立つた。
「騒ぐと承知せんぞ。」
「このあま!」
四号飯場の小頭で池田といふのが、先頭に立つてゐる若い女房をいきなり足搦みにかけて投げ倒した。半ば仰向けにひつくり返つた女房は腰を激しくくねらせたかとおもふと、力を極めて跳ね起きた。
「畜生めッ!」
組み着くと同時にまた投げ出された。・・・(間宮茂輔『あらがね』より)
この鉱山に、はるばる東京から曽根という青年がやって来る。 労働の中に真実を求め、大学を中退して、理想に燃えてやってきたのだ。
曽根青年は、現場の矛盾を目の当たりにし、憤り、そして、そんな中でも健気に生きる人々に熱く共感する。 彼らとともに懸命に働き、懸命に恋し、懸命に学び、そして成長していく。曽根青年は、著者の間宮茂輔自身がモデルであろう。
『あらがね』 について
落盤事故(大正7年に発生した筑豊炭坑での事故がモデルか)とそれに伴う労働争議を題材にした間宮茂輔(39歳)の小説。昭和6年から昭和12年にかけて、「前線」「人民文庫」 に分載され、昭和13年小山書店から出版された。地方産業の現実を描く「産業文学」の先駆的作品。芥川賞の有力候補になったが、落選。大政翼賛体制が浸透しつつあり、労働争議をテーマにした本作は、到底受け入れられるものでなかったか。間宮は、同年(昭和13年)、『続・あらがね』(同じく小山書店)も出している。こちらは、満州事変と日中戦争後の鉱業の爆発的伸張期を背景にしており、労使の対立はほとんど描かれていない。
■ 『あらがね』評
●作者が、云ふに云はれぬ人生の荒浪に揉まれ、芸術の鍛錬を怠らなかつた賜物(宇野浩二)
間宮茂輔について
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間宮茂輔 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『馬込文士村 ~あの頃、馬込は笑いに充ちていた~』(東京都大田区立郷土博物館) |
差別に反感を覚える
明治32年2月20日、東京の軍人(大佐)の家に生まれる。姉が1人と6人の弟妹がいた。弟妹の面倒をよく見る行儀のいい少年だった。幼少時は父親の転勤に伴って、旭川や門司や住吉(兵庫)などを転々とする。祖父母が特定の地域に住む人達を差別するのに強い反感を覚えた。
慶応大学を中退して久根鉱山へ
慶応大学普通部(中等科)に進み、英語教師・井川 滋(「三田文学」の編集に携わった人)の影響で文学に興味を持つ。回覧雑誌「独法師(ひとりぼっち)」(後に同人誌「ネスト」に発展。 与謝野 寛の指導を受ける)を作る。また、遠い親戚の堺 利彦から送られてくる冊子をむさぼり読んだ。 父親に文学の道を反対されて退学。株屋に勤めるが、金の話ばかりで幻滅、5ヶ月で退職して、大正7年(19歳)、トランク一つ下げて天竜川上流の久根
鉱山(明治から大正にかけ硫化鉄の一大産地だった。「久根神社」(静岡県浜松市天竜区佐久間町佐久間102 map→)が集落の名残を留める)入りした。上司の実弟がたまたま作家の相馬泰三で、知遇を得る。相馬を通じて、広津和郎や葛西善蔵を知る。 鉱山の不当な首切りに怒りを覚え、思いを綴ったパンフレットを鉱夫長屋などにばらまくが発覚して鉱山を去る。足掛け3年、久根鉱山にいた。
男木島燈台へ
東京に戻って書いた『彼と弟』が葛西善蔵に認められる。その後、瀬戸内海の黒木島(おぎじま)燈台(香川県高松市男木町 map→)で働く。ここで最初の本格的な小説『或る鉱山にて』を書くが、金に困っていた相馬に盗用されてしまう。島で関係を持った娘と娘との間にできた子をおいて上京。大正12年(24歳)、学友の紹介で広津和郎の芸術社に入いる。同人誌「不同調」(新潮系)に参加。 当時同棲していた堀江 貞
の山谷・吉原時代を描いた『抜けて出る』と、近代化の波に揉まれて没落していく網元を描いた『朽ちゆく望楼』で広く認められた。この頃から作品に社会性が強まる。「読売新聞」に文芸時評「初秋文壇処女月評」を連載。
共産系の運動に関与
昭和5年(31歳)、葉山嘉樹(36歳)を訪ね「文芸戦線」(社会民主主義系)に加入、演劇部に入って脚本を書いたり俳優をしたりしたが、1年後には「戦旗」(母体は共産主義系のナップ)に理解を示し「文芸戦線」を脱退。コップ(ナップが再編成されたもの)の小林多喜二の誘いを断わり、労働組合「全協」(日本共産党(非合法)系)の中央本部に入る。その頃、福田トクと結婚。共産党に関わったかどで昭和8年から昭和11年までの約3年間下獄した。6カ所の留置場をたらい回しにされたが、協力者の名も運動の内容も明かさなかった。運動からの離脱を誓わされて出獄した時は、歩けないほど衰弱していた。
「生産文学」の先駆となる
昭和12年(38歳)、自らの鉱山体験を下敷きに『あらがね』 を書く。政治的記述を巧みに避けたが、米騒動の場面が検閲にひっかかり再び短期間下獄。昭和17年(43歳)、海軍の報道班員として東南アジアの島々を巡ぐる。『
無花果
の家』といった愛をテーマにしたものも書く。
戦後、窮する
戦後、新日本文学会の発起人からは外されたが(海軍報道班に所属したためか)、その財務を担当。トク夫人とその間にできた二子と別居し、東京田端に一人住んだ。小林多喜二の『党員作家』を意識して書かれたと思しき『党生活者』(昭和33年)は日本共産党を内部告発したもの、『鯨工船』(昭和34年)も小林の『蟹工船』を意識したのではないだろうか。
日朝協会、日本原水協に関わる。広津和郎の死をきっかけに書いた『広津和郎 〜この人との五十年〜』(昭和44年 70歳)が最後の作品となる。昭和50年1月12日(75歳)死去。当地の池上本門寺に葬られる(
)。
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当地の本門寺(東京都大田区池上一丁目)にある父母の墓に間宮も葬られた。トクとの間に生まれた第1子も入っている。此経難持坂
を上がって右手にある長栄堂の裏手 |
間宮茂輔と馬込文学圏
大正15年初冬(27歳)、尾﨑士郎(28歳)のすすめで当地(東京都大田区馬込のどこか。尾﨑の家(南馬込四丁目)の近くか? 同時期に馬込入りした広津和郎の家(南馬込二丁目?)の近くか?)に、カフェ「プランタン」(神楽坂) で知り合った堀江 貞と住む。文芸時評「初秋文壇処女月評」や『抜けて出る』『朽ちゆく望楼』を書いた躍進期に当たる。昭和4年の秋(30歳)まで住み、大岡山(「大岡山駅」(東京都大田区北千束三丁目27-1 map→))に移転。その頃からプロレタリア運動に邁進し、貞には逃げられる。
■ 作家別馬込文学圏地図 「間宮茂輔」→
参考文献
●『六頭目の馬 ~間宮茂輔の生涯』(間宮 武 武蔵野書房 平成6年発行)P.130-133、P.172-174、P.184-189 ●『広津和郎』(間宮茂輔 理論社 昭和44年発行)P.96 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.32、P.62、P.64-65 ●『馬込文学地図(文壇資料)』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.30-31
※当ページの最終修正年月日
2021.6.7
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