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広津和郎『昭和初年のインテリ作家』を読む(人の悲哀に寄り添う)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

広津和郎は、戦前、日本が挙国一致でごりごりになっていった時代、危険を冒してプロレタリア系の人を支援した。 戦後になると、松川事件において、第一審で被告20名に死刑5名、無期懲役5名、他も有罪との判決が下りたにも関わらず、彼らが犯人でないと直感し、10年以上にわたってその判決を切り崩していった。 一貫してバリバリの社会派である。

しかし、この作品集 『昭和初年のインテリ作家』 で、広津は何も難しいことを言わない。 告発調でもないし、激することもない。 ただ淡々と訳ありな人たちに寄り添うのみであった。

病の夫の薬を得るために身を売る妻の話や、今日の米を得るために別れた妻に頭を下げる男の話。 人の夫婦の子どもを生む女もいれば、父親の元であたら青春を不完全燃焼させている娘さんも出てくる。 皆、ちょっぴり、またはかなり悲惨なのだが、そこにほのぼのとした空気が流れているのは、やはり広津の人柄からなのだろう。広津は人の欠点を見るより、美点を見ようとする人だった。

『昭和初年のインテリ作家』 は短編集であるが、表題作の 「昭和初年のインテリ作家たち」 は、昭和初期の馬込文学圏の作家たちの話である。 須永という話好きの人物は右から見ても左から見ても尾侮m郎であろうし、北川は広津自身がモデルに違いない。 夫の須永をうっとり見つめる細君とくれば宇野千代で、途中から現れる痩せ衰えた詩人は萩原朔太郎を彷彿とさせる。 ここでは、大流行のプロレタリア文学にもなじめず、アメリカ伝来のコマーシャリズムにも腹を立て、若い作家たちがもてはやすフランス文学にもついていけない純文系の作家たちの苦悩が、面白おかしく描かれている。

・・・まん丸なお月様が、侘しげな航路の上を、しづしづと辿つて行つたが、併しその顔は今や窓の中の雑談を羨しさうに聞いてゐるそれではなかつた。 寧ろめつきりと侘しくなつた時代遅れの芸術家達の聲に、同感と哀憐とを感じてゐるそれであつた。
『何しろ俺達のニヒリズムより、まだしもあのジャズの方が健康かも知れないね』
 彼等は笑ひながらそんな事を云つた。 が、笑ひながらでもそんな言葉が洩れかかつた時は、つまり彼等が確に守勢になつて、彼等の城壁を危つかしげに支へてゐる自分等の位置を感じ始めた時である。 一口に云ふと、つまり世の中の変化をよそに見てゐられると信じてゐた自信が、ゆるぎかかつた時である。・・・ (『昭和初年のインテリ作家より』)

ああ、人生に悲哀あり、である。 この広津和郎という人は、悲哀に満ちたこの“人間”ってやつがどうしようもなく好きだったんだろうな、と思う。


「昭和初年のインテリ作家」について

昭和5年4月、「改造」に掲載された広津和郎(38歳)の短編小説。 昭和9年発行の作品集の標題にもなっている。

『広津和郎全集(第2巻)』。「昭和初年のインテリ作家」所収。作品集『昭和初年のインテリ作家』にある「過去」「訓練された人情」も入っている*
広津和郎全集(第2巻)』。「昭和初年のインテリ作家」所収。作品集『昭和初年のインテリ作家』にある「過去」「訓練された人情」も入っている

広津和郎について

広津和郎
広津和郎 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用しました 出典:甘口辛口/実録:広津和郎のヒステリー体験→

多額の負債を、円本の印税で返済
明治24年(1891)年12月5日、東京牛込生まれ。 父親は、永井荷風が弟子入りを申し込んだほどの小説家・広津柳浪

麻布中在学中から書き始め、早稲田大学在学中からは翻訳で稼いだ。 大正元年(21歳)、葛西善蔵らと同人誌 「奇蹟」 を創刊。 卒業後、評論などを書く。 大正6年(26歳)、『神経病時代』 で認められた。 大正12年(32歳)、『武者小路実篤 全集』 の出版を目的に芸術社を起こすが、極端に凝った造本で採算が合わなくなり、失敗。 その時抱えた負債を返済する目的で大森書房を設立するが、またもや失敗。 多額の負債を背負った。 しかし、その後、円本ブームの波に乗り、無事返済。 周りからの信望が厚く、女性関係も複雑だった。 プロレタリア作家を陰で支えたことから、同伴者作家とも呼ばれた。 悲観にも楽観にも偏らない 「散文精神」 なるものを打ち出し、モットーにした。

戦中は熱海に疎開。その時同地にいた志賀直哉と親交を結ぶ。

渾身の松川事件被告救済運動
昭和24年に起きた電車転覆事件(松川事件)では、20名の組合員(主に共産党員)が起訴され第一審では死刑を含む判決が出るが、広津は彼らの無罪を確信。 第二審を傍聴、裁判記録を検討したり、関係者にあったりして考察を深めた。 そして、『松川裁判』(筑摩書房 昭和30年〜 64歳〜)、 『松川裁判』(中央公論社 昭和33年)、 『松川裁判の問題点』(中央公論社 昭和34年)などで、裁判の進め方の問題点と、被告らの無罪を世に訴え、被告救援活動の中心的存在になった。 昭和36年(69歳)、被告全員の無罪が確定。

昭和26年(60歳)には、 『異邦人』 を巡って中村光夫と論争している。広津カミュについて否定的だった。

昭和43(1968)年9月21日、76歳で死去。墓所は東京の谷中霊園( )。

広津和郎
・ 「無私にして柔軟な心」(平野謙)
・ 「数字がわかっているくせに、このくらい数字を超越している人はいない」(尾侮m郎

広津和郎 『年月のあしおと〈上〉 (講談社文芸文庫)』。自伝的文壇回想録 広津和郎 『年月のあしおと〈下〉 (講談社文芸文庫)』
広津和郎 『年月のあしおと〈上〉 (講談社文芸文庫)』。自伝的文壇回想録 広津和郎 『年月のあしおと〈下〉 (講談社文芸文庫)』
松原新一『怠惰の逆説 ―広津和郎の人生と文学』
松原新一『怠惰の逆説 ―広津和郎の人生と文学』

広津和郎と馬込文学圏

大正15年(35歳)、銀座のカフェ・ライオンの給仕を・松沢はま(松沢太平の妹)を連れて馬込文学圏入り※1。 父親の柳浪がおり、老衰の始まった父親の近くに住むことが大きな目的だった。当地に、芸術社社員の間宮茂輔や、義兄の松沢太平がいたことも関係したろう。 最初、馬込第二小学校の裏門近く(南馬込二丁目)に住み、その後、同じく南馬込二丁目の少し高台の方に移動。

馬込文学圏では、麻雀、絵画※1、魚釣り、キャッチボールなどに熱中。 書斎に尾侮m郎宇野千代国木田虎雄吉田甲子太郎保高徳蔵らを招いては文学談義に花を咲かせたという。 遊びながらも、菊富士ホテルを仕事場にして、旺盛に執筆する。 昭和4年(38歳)、大森書房を設立。 昭和5年(39歳)、世田谷に転居した。 広津の馬込文学圏時代は、4〜5年ほど。

馬込文学圏に住んだ頃の広津和郎と松沢はま。大正15年頃か ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用しました 出典:『馬込文士村ガイドブック(改定版)』(大田区立郷土博物館)
馬込文学圏に住んだ頃の広津和郎と松沢はま。大正15年頃か ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用しました 出典:『馬込文士村ガイドブック(改定版)』(大田区立郷土博物館)

作家別馬込文学圏地図 「広津和郎」→


脚注

※1 : 大正14年8月頃、広津芸術社失敗後の立て直しを計ってか、新橋烏森の待合 「松竹」 や東京本郷の菊富士ホテルに身を潜めた。その時そばにいたのが、「松竹」 の女主人の白石 都里 つさと 。 彼女の愛人だった松山省三は彼女と別れてくれと広津に懇願したそうだが、男女の仲はそう簡単にはいかない。ちなみに、広津にはこの時、元子という伴侶がいた。しかも彼女は内縁で、戸籍上の妻もいて、賢樹、桃子(後に作家。 広津桃子)という子どもまでいた。 さらには、広津は、女優の松井千枝子やその妹とも深い仲だったという。 そんな女性関係の複雑な広津だったが、はまだけは特別で、彼女が亡くなる昭和37年までの37年間、連れ添う。はまが亡くなった時広津は70歳。その悲しみようは尋常でなく、彼女の思い出話になると大泣きしたという※2。はまのことは、「はま夫人」と書かれることがあるが、戸籍上の妻と離婚成立しなかったため、戸籍上の妻ではないようだ

※2 : 二科展に入賞したこともある腕前。若い頃画家になろうとしたが、父・柳浪の勧めで早稲田の文科に進学した。


参考文献

● 『昭和初年のインテリ作家』(広津和郎 改造社 昭和9年) P.249 ● 『広津和郎 この人との五十年』(間宮茂輔 理論社 昭和44年) P.82-105 ● 『さまよへる琉球人』 (広津和郎 解説:仲程昌徳 同時代社 平成6年発行)P.137-139 ● 『文壇資料 馬込文学地図』(近藤富枝 講談社 昭和51年) P.34-44 ● 『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年) P.58-59  ● 『本郷菊富士ホテル(中公文庫)』 (近藤富枝 昭和58年初版発行 平成10年4刷参照) P.157-163 ● 『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年発行) P.58-59 ● 『座談会 昭和文学史 (一)』(井上ひさし小森陽一 編 集英社 平成15年) P.56-66、P.492


参考サイト

早稲田と文学/広津和郎→
文学者掃苔録図書館/広津和郎→
ウィキペディア/松川事件→
Amazon/『古雑誌探求』 小田光雄→


※当ページの最終修正年月日
2018.10.14

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