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一つの死をめぐって(昭和3年7月23日、葛西善蔵、死去する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小島政二郎

昭和3年7月23日(1928年。 の夜中、葛西善蔵(41歳)が、東京都世田谷区 三宿みしゅく Map→のあばら屋(二軒長屋の西側)で死去しました。

最後の言葉は、「切符、切符」。

葛西の最後の願いは故郷の碇ヶ関 いかりがせき (青森県平川市)Map→に帰ることだったので、意識朦朧とする中、碇ヶ関への切符を求めたのだろう、と臨終の床にいた谷崎精二(谷崎潤一郎の弟。小説家)が書いています。

嘉村礒多

葛西は肺を病んでも日々酒に溺れ、妻を郷里において茶屋の娘と同棲して子をもうけるなど、破天荒な人生を送って来ました。彼の口述筆記を70日間務めた 嘉村礒多かむら・いそた (30歳)は、晩年の葛西を次のように書いています。

・・・口述が渋つて来ると逆上して夫人を打つ蹴るはほとんど毎夜のことで、二枚も稿を継げるとすつかり有頂天になつて、狹い室内を真つ裸の四つん ひでワンワン吠えながら駈けずり廻り、こうして片脚を上げて小便するのはをとこ犬、こうしてお尻を地につけて小便するのはをんな犬、と犬の小便の真似をするかと思ふと疊の上に長く垂らした ふんどし の端を ようや く歯の生え始めた、ユウ子さんにつかまらしてお山上りを踊りながら、K君々々と私を見て、……君は聞いたか、 寒山かんざん 子、 拾得じっとく つれて二人づれ、ホイホイ、君が責めりや、おいらこうやつてユウ子と二人で五老峰に逃げて行くべえ。 とそんな 出鱈目でたらめ の馬鹿 巫山戲ふざけ ばかしやつた。ある日私は たま りかねて催促がましい口を利くと、明日はS社で二百両借りて来いと命じたので、断じて出来ませんと答へるとZ・K氏は 少時しばらく 私をぢつと見据ゑたが、くそ垂れ!・・・(嘉村礒多 『足相撲』より)

嘉村はZ・K氏(葛西善蔵)の隠しておきたいようなことを書いてしまっていますが、師匠の葛西からして、「 わたくし 小説」(“私”(自分)をモデルにした小説を大正9年頃から揶揄してそう呼んだ)の極北的存在だったので、師匠にならったまでです。嘉村はべつのところでは、葛西を 「ひとへに生涯のそう (師匠)」 と書いています。「どうしようもない葛西」も「付いて行きたい葛西」も嘉村にはどちらも本当なのでしょう。 「くそ垂れ!」と罵られても、嘉村は、葛西の死の床に駆けつけたことでしょう。

多くの作家が私小説を書きましたが、その多くが「取り上げやすい私」を書いたもので、小説の中の“私”に著者は感傷的に、たとえその“私”がどうしようもない感じであってもそれに共感する形で書かれたものでした(「こんなバカな私だけど、お茶目でしょう?」とか)。ところが、葛西の小説は、作中の “私”を著者が嫌うことすら辞さないという徹底したものだったのです。葛西なごやかさや凡俗な人情の世界を嫌いました。

“私”をいい子ちゃんいい子ちゃんしない葛西は、モデルに対しても容赦なく、ある時はいびつに誇張して、ある時は嘲笑的に、ある時は侮蔑的に書いて、モデルたちを怒らせてきました。

広津和郎

広津和郎(36歳)は短編小説『遊動円木』青空文庫→で滑稽に書かれてから葛西と絶交していましたが、葛西の死の床に駆けつけました。それで、どうしたかというと、瀕死の葛西に対し「肚にある不快をすっかり、ぶちまけ」たそうです。そして、葛西が許しを乞うように手を差し伸べてもけっして握り返さなかったそうです。葛西葛西なら広津広津ですね(笑)。

この広津の態度に感心したのが山本周五郎志賀直哉です。志賀は「世間からは誤解されさう」な態度としながらも、好感を持ったと書いています。「今際いまわきわ」という非日常でも情に流されなかった透徹した精神打算のなさ正直さに共感してのことでしょう。結局は、広津も、周五郎も、志賀も、そして、葛西も“同類”です。口先だけの政治家や「人は見た目」のやからとは対極の存在。

間宮茂輔

間宮茂輔(29歳)も、榊山 潤(27歳)から連絡をうけて死の床に急行しています。負の方向性であったにしろ、“正直さ”では誰も葛西にかなわなかったようで、間宮葛西に私淑していました。

牧野信一

葛西からみっちり飲酒を伝授されたくちの牧野信一(31歳)は、「断想的に」という追悼文を残しています。それによると、葛西には人並みはずれて情け深い面があったようです。牧野の子どもが病気になったとき、葛西は当時簡単には手に入らなかった体温計を吟味に吟味を重ねて買い求め、理系の友人にテストまでしてもらって、牧野に届けたとか。

旅をしようとしない牧野に旅に出ることをさかんにすすめたのも葛西でした。冒頭で葛西の最期の言葉を紹介しましたが、葛西は“旅人”だったのでしょう。葛西は「現実の虚無と倦怠」から逃れるため、旅(遁走と放浪)を繰り返しました。牧野も旅に出ることができたなら、自死せずに済んだかもしれません。

石坂洋次郎

石坂洋次郎(28歳)も、葛西と同じ青森県出身ということもあって、大正12年から葛西に師事していました。石坂は、“葛西的な暗さ”を乗り越え、“明るい文学”を目指します。石坂は、葛西の文学碑設立に尽力しました。

葛西は死の前日(7月22日)、隣室に集まった親族、見舞客の十数名に酒を出し、自らも看護婦に 吸飲すいのみ で酒を飲ませてもらい、意識朦朧の中、集まった人たちに謝意を呟いたそうです。酒仙として見事な大往生だった、と友人の舟木重雄(小説家。葛西広津と同人誌「奇蹟」を創刊)が手記に残しています。

『葛西善蔵(作家の自伝)』(日本図書センター) 鎌田 慧 『椎の若葉に光あれ 〜葛西善蔵の生涯〜 (岩波現代文庫)』
葛西善蔵(作家の自伝)』(日本図書センター) 鎌田 慧『椎の若葉に光あれ 〜葛西善蔵の生涯〜 (岩波現代文庫)』
多田道太郎 『転々私小説論 (講談社文芸文庫)』。私小説作家4人(葛西善蔵、宇野浩二、井伏鱒二、太宰 治)について語る 西村賢太『二度はゆけぬ町の地図(角川文庫)』。葛西を愛読した西村は、葛西の何を継承し、葛西の何を超えたか
多田道太郎 『転々私小説論 (講談社文芸文庫)』。私小説作家4人(葛西善蔵宇野浩二井伏鱒二太宰 治)について語る 西村賢太『二度はゆけぬ町の地図(角川文庫)』。葛西を愛読した西村は、葛西の何を継承し、葛西の何を超えたか

■ 馬込文学マラソン:
広津和郎の『昭和初年のインテリ作家』を読む→
山本周五郎の『樅ノ木は残った』を読む→
志賀直哉の『暗夜行路』を読む→
間宮茂輔の『あらがね』を読む→
榊山 潤の『馬込文士村』を読む→
牧野信一の『西部劇通信』を読む→
石坂洋次郎の『海を見に行く』を読む→

■ 参考文献:
● 『葛西善蔵論』(谷崎精二)、『遊動円木』(葛西善蔵)、『足相撲』(嘉村礒多) ※「加能作次郎 牧野信一 葛西善蔵 嘉村礒多集(現代日本文学全集34)」(筑摩書房 昭和30年発行)に収録  ●『昭和文学作家史(別冊 一億人の昭和史)』(毎日新聞社 昭和52年発行) P.65、P.194  ●『六頭目の馬 ~間宮茂輔の生涯〜』(間宮 武 武蔵野書房 平成6年発行)P.121-125  ●『山本周五郎 〜馬込時代〜』(木村久邇典 福武書店 昭和58年発行)P.171  ●『牧野信一全集<第六巻>』(筑摩書房 平成15年発行)P.646 ●「私小説」(平野 謙)※『新潮 日本文学小辞典』(昭和43年初版発行 昭和51年発行6刷)に収録 ● 『馬込文士村』 榊山 潤 東都書房 昭和45年発行)P.25-30 ●『断想的に』(牧野信一青空文庫→ ●「石坂洋次郎葛西善蔵ケペル先生のブログ→ ●「蝕まれた友情/文献継承」(林蘊蓄斎)daily-sumus→  ●『人間臨終大図鑑(上)(角川文庫)』(山田風太郎 平成26年初版発行 平成30年発行再版)P.237-239

※当ページの最終修正年月日
2023.7.24

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