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榊山潤の『馬込文士村』を読む(作家たちの武勇譚)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今も馬込銀座と呼ばれる一角がある。当時は、映画館や飲み屋が軒を連ね、「場末の繁華街」の雰囲気を漂わせていたという。そこのおでん屋で一杯やった三好達治と松沢太平(広津和郎の義弟)。 店を出ると、泥酔した三好が危なっかしい。二人もつれて歩くうちに、三好がドブにはまってしまう。

近くの派出所から二人の様子を見ていた若い巡査は、松沢が三好をドブに突き飛ばしたと思って松沢を注意。 身に覚えがない、どころかむしろ泥酔した三好を助けようとしていた松沢は、いっぺんに頭にきて巡査と言い合いとなるのだった。三好はべろべろで、松沢の無実をはらす状況にないのが辛い。

派出所での争いを聞きつけた中華料理店の娘・ユリは、そこで飲んでいた榊山 潤尾﨑士郎、吉田甲子太郎きねたろう にそのことを報告、待ってましたとばかりに、彼らも駆けつける。

怒っている巡査を松沢はからかってさらに怒らせ、さらには人事不省じんじ・ふせい三好は交番の机に倒れ込んで書類に鼻水を垂らす始末。巡査の怒りは頂点に達し、とうとう「騒ぎを起こした罪」で三好と松沢を警察まで連行すると言い出すのだった。と、そこまでは調停役だった吉田が、松沢を押しのけて巡査の前に出た。

吉田 「君はこの二人を、どういう方法でつれて行くつもりだ」

巡査 「二人は歩かせ、自分は自転車で見張りながら行く」

吉田 「こんなに酔っている人間が、海岸通りの警察まで歩けると思うのか。 そんな非人道的なことは許されない」

巡査 「騒ぎを起こした罪だから仕方がない。 無理にも歩かせる」

吉田 「よし、それならおれが人力車を呼んでやる。 この二人を乗せ、おれたちも人力車で送って行く。行って、君のようなわからず屋を馬込の交番におかれては、居住者が迷惑だと、署長に談判してやる。君は勝手に自転車で行け」

吉田は交番から出て、様子を見にきたユリに向い、「すまないが車屋に電話をかけて、空いている車をぜんぶ此処ここへよこすように言ってくれ。 天神山の吉田だと言ってな」 (榊山 潤『馬込文士村』 より)

と、吉田は精一杯の意地をはって、威張る巡査の鼻を明かし、仲間を救出しようとするのだった・・・

『馬込文士村』には、このような、当地(東京都大田区南馬込や山王あたり)の作家たちの野放図な武勇譚が散りばめてあって、楽しい。 登場する作家は、当地ではおなじみの顔ぶれだ。みんな貧しく、みんなHで、みんなおっちょこちょいで、でも、みんなそれなりに悩み深い。あなたの作家観が変わるかも?


『馬込文士村』 について

榊山 潤『馬込文士村』(東都書房 昭和45発行)。箱と表紙に鈴木信太郎が描いている。これは箱の方だが、上の文に出てくる中華料理店だろう。馬込東中前通りの坂を下り切って、環状七号線にぶつかる辺りの左手(現在「まいばすけっと南馬込」(東京都大田区南馬込二丁目5-3 アドバンスシティ大森1F map→))に20年ほど前まであった中華料理店だろうか? 榊山 潤『馬込文士村』(東都書房 昭和45発行)。箱と表紙に鈴木信太郎が描いている。これは箱の方だが、上の文に出てくる中華料理店だろう。馬込東中前通りの坂を下り切って、環状七号線にぶつかる辺りの左手(現在「まいばすけっと南馬込」(東京都大田区南馬込二丁目5-3 アドバンスシティ大森1F map→))に20年ほど前まであった中華料理店だろうか?

榊山 潤さかきやま・じゅん 70歳時の作品。大正末から昭和初期にかけて当地(東京都大田区南馬込や山王あたり)に醸成された“文士村”的交流を描く。登場するのは、著者の榊山をはじめ、広津和郎尾崎士郎徳田秋声室生犀星萩原朔太郎藤浦 洸川端康成佐藤朝山間宮茂輔衣巻省三宇野千代芥川龍之介三好達治、松沢太平、山田順子牧野信一など。 彼らはおよそ30歳前後で、皆若かった。当地が「馬込文士村」と呼ばれるきっかけとなる。


榊山 潤について

榊山 潤 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『馬込文士村 ~あの頃、馬込は笑いに充ちていた~』(東京都大田区立郷土博物館) 榊山 潤 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『馬込文士村 ~あの頃、馬込は笑いに充ちていた~』(東京都大田区立郷土博物館)

明治33年11月21日(ジャスト1900年)、横浜市南区中村町map→で生まれる。父は外国人相手の出張理髪師で、4~5軒の店を構え繁盛した。家には浪曲師の初代・ 桃中軒雲右衛門とうちゅうけん・くもえもん Wik→や、力士の駒ヶ岳や、碁打ちや将棋指しなどが寄食。父は囲碁将棋クラブも経営した。榊山は物心つくとクラブを仕切る老碁打ちから手ほどきを受け、7~8歳頃には三段の人に三目置かせて(三目の有利を与えて)勝つまでになる。後年の18年間(昭和28~45年)、文壇本因坊の座についたというのも当然のこと。激しい碁を打ち、“森の石松”と呼ばれ、囲碁の本も複数執筆することとなる。

小学校5年のとき、父が連帯保証人になった知り合いが失敗して逃げ、一家は一夜にして没落。 父は働く意欲を失い、母が駄菓子屋と文房具店を経営して一家を支えた。中学を中退して、一人、横浜の西戸部map→で三畳間を借り、雑貨屋の店員、電球工場の職工、事務員などをする。働きながらYMCA(Young Men's Christian Association。キリスト教青年会 Wik→)で英語を学ぶ。

大正7年(18歳)、誘われて雑誌「ニコニコ」の編集業務につき、文壇に一歩近づく。「売文社」に接近し、同社の尾﨑士郎と親しくなる。大正12年(23歳)時事新報社の雑誌 「少年」に書いた文章で認められる。同社の雑誌「少女」所属の牧野信一とも親しくなった。2年後(大正14年、25歳) 佐佐木茂索ささき・もさく の後をついで同社の学芸部記者になる。

佐倉 雪(『馬込文士村』では鳥子として出てくる)とは、彼女が左系の出版社に所属していて、榊山に本を「時事新報」で紹介してくれるよう頼みに来たことをきっかけに交際。二人とも虚無的になっており、心中一歩手前までいく。ここら辺の経緯も『馬込文士村』に詳しい。“馬込文士村”というと陽気な笑いが満ちている印象だが、享楽と背中合わせに、とてつもない苦悩もあった。榊山にしても、萩原にしても、牧野にしても。昭和7年(32歳)、吉田甲子太郎を仲人に雪と結婚、生涯連れ添う。

中村武羅夫の推薦で「新潮」 に 『蔓草の悲劇』を発表。 それを機に「時事新報」を退社して、作家生活に入る。 昭和15年(40歳)、雪夫人の父の佐倉強哉きょうや (新政府軍に敵対した二本松藩に属し、九死に一生を得た人。後に検事正として活躍)について書いた長編小説『歴史』で第3回新潮社文芸賞を受賞した。

太平洋戦争中は、特派員・報道班員(昭和16年徴用される)として上海、バンコク、ビルマを巡る。戦争もののほか、維新もの、赤穂浪士関係、戦国時代もの、囲碁関係、徳田秋声尾崎士郎の評伝、神奈川県の郷土史関係など幅広く書く。文芸誌「文芸日本」、文芸誌「円卓」などで後進を育てた。萩原葉子も弟子筋。

晩年まで精力的に書いたが、昭和55年9月9日(1980年。79歳)、横浜市富岡のマンション「シーサイドコーポ(H棟)」map→の自宅で死去。 横浜で生まれ横浜で没したことになる。墓所は、富士霊園(静岡県駿東郡小山町大御神888ー2 map→)( )。

榊山 潤 『歴史 ~二本松藩士の維新~ (時代小説文庫)』(富士見書房) 榊山 潤『ビルマ日記』(南北社)
榊山 潤 『歴史 ~二本松藩士の維新~ (時代小説文庫)』(富士見書房) 榊山 潤『ビルマ日記』(南北社)

榊山 潤と馬込文学圏

関東大震災の頃(大正12年9月)から当地(東京都大田区池上)に住んでいた。翌大正13年(24歳)、尾崎士郎の勧めで後に室生犀星が越して来たあたり(東京都大田区山王四丁目か)に、足立たつと同棲。尾崎士郎らと交遊する。たつが開いた洋酒専門のバー「ツーシスター」の2階に居候していたこともある(現在のそば屋「一力」(東京都大田区山王一丁目8-5 map→)あたりにあった)。店は室生犀星などの作家連でにぎわう。昭和6年(30歳)たつと別れて当地を去った。 池上時代を含めると8年ほど当地にいたことになる。

作家別馬込文学圏地図 「榊山 潤」 →


参考文献

● 『馬込文士村』榊山 潤 東都書房 昭和45年発行)P.37-46、P.152-159、P.208-215 ●『歴史作家 榊山 潤』(小田 淳 叢文社 平成14年発行)P.21、P.25、P.132-134、P.144-145 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.36-37 ●「馬込文士村(No.35、No.36、No.40)」(谷口英久)※平成3年 「産経新聞」に掲載された ●『馬込文学地図』 (近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.192-193 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.80-82 ●『評伝 尾﨑士郎』(都筑久義 ブラザー出版 昭和46年発行)P.352-353

参考サイト

釧路地方検察庁/釧路地検の紹介→ ※佐倉強哉について触れている

※当ページの最終修正年月日
2021.3.23

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