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昭和15年3月7日(1940年。 斎藤隆夫議員の除名を求める懲罰動議が本会議に提出され、即日投票がありました。 5日前の3月2日、斎藤が行った代表質問の内容が問題とされたのです。斎藤は、中国侵略の過程で日本側にも10万人に達する戦死者が出ているのに、目的が周知されていないことを指摘。「反軍演説」と呼ばれるものです。 ・・・ただ これらの箇所が「聖戦」を冒涜しているとして、陸軍が政府に圧力をかけ、斎藤の発言の後半部分は議会速記録から削除され、官報にも掲載されませんでした。
斎藤の除名に大多数が賛成するようでしたが、立憲政友会の芦田 均(52歳)は「一人になっても反対する」覚悟でした。斎藤は民政党で、芦田は立憲政友会です。芦田は党利党略でなく「志」で動いたのです。芦田は満州事変後の陸軍の目にあまる中国侵略を食い止めるため20年以上の外交官のキャリアを投げ打って政治家になりました。芦田は「反軍演説」後、斎藤除名に反対するよう呼びかけて回っています。 しかし、3月7日の投票では、出席議員305名のうち反対票を投じたのは芦田を含む7名だけでした。140名以上の議員が欠席。反対票を投じて軍部に睨まれるのを恐れ逃げたのでしょう(投票は誰がどちらに投票したか見える仕組みになっている)。しかして、除名賛成が圧倒的多数で、斎藤は議員資格を剥奪されました。
除名に反対した7名は、芦田のほか、当日民政党を脱党した岡崎久次郎、立憲政友会の牧野良三、
除名に反対した立憲政友会の5名(芦田、牧野、名川、宮脇、丸山)は、即刻会から除名されました。当日欠席した人たちは逃げた人たちですが、除名に賛成しなかったということで、鈴木文治、片山 哲、水谷長三郎、西尾末広、岡崎 憲、米窪満亮、富吉栄二、松永義雄も所属していた社会大衆党から除名されます。その仕打ちに怒って安部磯雄は自ら離党。こうして、軍に抵抗した人たちは、政界の隅に追いやられ、どの党も軍の言うがままとなり(当時も「支持を広げるためにウィングを広げるのだ」とか「権力の懐に飛び込んで改善するのだ」とか弁解された?)、「五・一五事件」以後虫の息だった政党政治の息の根がほぼ絶たれ、翼賛体制が完成。3ヶ月後日本はヒットラーやムッソリーニと手を組み(日独伊三国同盟)、7ヶ月後には大政翼賛会が結成されます。
上記7名以外の国会議員には、軍部に流され、中国への侵略(「日中戦争」「日華事変」とか呼んであたかも双方の侵略方針がぶつかったかのように現在でもごまかされるが、日本軍による中国侵略に対する中国側の抵抗だった)を推進した責任があります。中国への侵略を自ら止め得なかったことで、日本は、次にアジア太平洋戦争へと突入していきました。 注意したいのは、斎藤も「反戦」ではなかったことです。あくまでも「反軍」でした。斎藤は演説の最初の方で「戦争は元来徹頭徹尾、競争である」「適者即ち強者の生存であります」「強者が興って弱者が滅びる。過去数千年の歴史はそれである」「未来永遠の歴史も、それでなくてはならない」と発言。「戦争に勝って、国益がもたらされるのなら、相手国に死傷者がどれだけ出ようが知ったこっちゃない」という考えです。つまりは「戦争という殺人行為」は肯定していたのです。斎藤といえども「帝国主義的な野蛮な思想」に毒されていました。 「(国益がどうだろうが)人を殺すべからず」の思想は、世界的には紀元前からありました。日本でも、仏教の殺生(人はもちろん動物を殺すこと)を戒める思想がありましたが、世論として大きく立ち上がってくるのは、日露戦争あたりからでしょうか。キリスト教や社会主義の立場から訴えられてきました。ところが、大正末あたりから、「反戦」を訴えれば、学府を追われ、言論を封殺され、牢屋に投げ込まれ、弾圧に次ぐ弾圧でした。 戦争は、今も、なぜ、なくならないのでしょう? ──答えは、意外に簡単なのかもしれません。「繋ぐ人」ボブ・マーリーは体全体で訴えます(銃撃された後であり、皮膚癌発症後でもあり、痛々しい・・・)。 Until the philosophy War in the east
ある人種が優れていて 西でも戦争だ
■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |