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明治31年3月2日(1898年。 明治天皇(45歳)が、江戸幕府の最後の将軍(第15代)だった徳川慶喜(60歳)を初めて皇居に招きました。明治天皇は人払いをして、皇后も含め3人で親しく食事したそうです。 幕末の倒幕軍のやり方は酷いものだったので、慶喜の心中は怒りが怒涛のごとくだったことでしょう。しかし、明治になって30年、この会食で皇后からの酌を受け、慶喜も怒りを少しは納めることができたのではないでしょうか。 この会食をセッティングしたのが勝 海舟(74歳)でした。江戸城の無血開城の立役者の海舟も、年齢を重ね、すでに万年床に寝たり起きたりの日々でした。旧幕府の人脈と倒幕サイドの人脈とを「繋ぐ」ことが、海舟の最後の大仕事でした(海舟は翌年1月に死去)。 思うに海舟は、一貫して「繋ぐ」人でした。 幕府と尊王攘夷の志士とを「繋ぎ」(これは倒幕勢力を勢いづける結果となったのでマズかった)、日本と西欧とを「繋ぐ」のにも一役かっています。日清戦争にも反対、アジアの融和を訴えました。 海舟は、西南戦争後「賊軍の将」とされた西郷隆盛の汚名返上にも尽力しました(近年は西郷を美化し過ぎ。幕末の西郷はテロリストといってもいい)。西郷は死後12年(明治22年)、大日本帝国憲法発布時に大赦されます。東京上野の西郷像(Photo→)が除幕されたのは、明治天皇と徳川慶喜の会見があったのと同じ明治31年です。 海舟は下町っ子です。極度の貧困も経験しています。それゆえ、江戸の
「繋ぐ」仕事は簡単なようで、実は、とても難しいことのようです。 「繋ぐ」ことは、双方から恨まれがち。海舟も、倒幕勢力からはもちろん、幕府内からも敵視されていました。 強い勢力にはペコペコし、弱いと見ると蔑視してポコポコと叩くような近年の安っぽい政治家には到底できない仕事です。
時代も分野も違いますが、ボブ・マーリー(レゲエの先駆者の一人)も「繋ぐ」人でした。 ボブの故国・ジャマイカ(Map→)では、2つの政治勢力が対立・抗争状態にあり、ボブも一方の政治勢力からの恨みをかって、襲撃されたことがあります(胸と腕を負傷)。ボブは歌で、「力」(武力)による政治を批判し続けていたのです。 2年後の昭和53年、ボブは、「ワン・ラブ・ピース・コンサート」で、「Jamming」(YouTube→)を演奏中、招待した両勢力のトップをステージに招き和解の握手をさせています(ボブ33歳)。 「Jamming」の「jam」という言葉には、一緒にやる、混ぜ合わせる、つまりは「繋ぐ」という意味もあるようです。 「Jamming」の一節に「No Bullet can stop us now/We neither beg nor we won't bow/Neither can be bought nor sold」 (弾丸でも僕らを止められやしない。
為政者の影響もあって、日本もすっかり「差別」「金権」が大手をふって表通りを歩く嫌な世の中になってしまいました。「力」(武力や金)に寄りかかった政治を否定し(日本国民統合の象徴である天皇陛下も大切に思っていらっしゃると思われる平和憲法(立憲主義)を遵守し)、日本に住まう人たち全てが仲良く暮らせる当たり前の世の中を取り戻すべく、人と人とが繋がっていくことが必要です。 繋がるとは、具体的には、民主主義の要諦・選挙で協力すること。自民党に脅されて自民党になびくようになった公明党が、今一度、「平和の党」に戻ることを期待しています。
まともな野党と、個人(子ども・学生、市民、学者、芸術家、在日外国人など)と、平和を志向する団体(市民団体・企業・政治団体・宗教団体など)が繋がることを願っています。 「東京新聞(夕刊)」に連載された辻村深月さんの小説『この夏の星を見る』には、茨城に住む高校生と、東京渋谷に住む中学生と、長崎の五島列島に住む高校生が出てきます。最初は、それぞれの生活(それぞれが異なる悩みを抱えている)が語らえれますが、連載200目くらいから、3人が、徐々に、「星を見る」ことで繋がってきます。 クラウン(道化師)の大棟耕介さんは、ロシアとウクライナの両国で10年間、小児病棟を慰問してきました。ロシアのウクライナ侵攻が続く中、自分にできることはないかと考え、自身のパフォーマンスを見て笑う両国の子どもたちの写真展を企画。これも「繋ぐ」活動ですね。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ■ 参考映像: ※当ページの最終修正年月日 |