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※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『万延元年遣米使節図録』(編:田中一貞)(NDL→) 原典:「咸臨丸烈風航行の図」(作画:
日米修好通商条約の批准書交換(批准とは条約の最終手続き)のため派遣される使節団(正使:
咸臨丸は、幕府がオランダに注文して造らせた木造の小型の洋式軍艦で(マストが3本と蒸気機関で動くスクリューを持つ。大砲12門(推定)。長さは約50m(48.8m。ポーハタン号は77m超))、観光丸に次ぐ2番艦でした。咸臨丸の渡航には、日本人が、日本人の手で、日本所有の船で太平洋を渡り切ること、そしてそれを成し遂げて日本の国力を内外に知らしめす目的もありました。
咸臨丸の乗組員は、艦長の木村摂津守(木村芥舟。28歳)、指揮官の勝 海舟(36歳)をはじめ(勝が艦長との見方もある。木村と勝は長崎の海軍伝習所時代からの仲だが、律儀な木村と自由奔放な勝とではあまり反りが合わなかったようだ)、測量方 兼 運用方(航海長)の小野
勝が出発前のことを次のように語っています。 ・・・ちやうどその頃、おれは熱病を
「ちよつと品川まで船を見に行くといひ残し」って、本当でしょうか?(笑) 最初、日本人だけで航海する予定でしたが、台風に遭って座礁し横浜に滞在していた米国の測量調査船「クーパー号」の艦長・ジョン・ブルック海軍大尉(33歳)ほか数名の乗組員も、帰国するために、乗艦することになります。米国人の乗艦に反対した人たち(独立心旺盛な勝も反対したようだ)を木村が、航海の道案内と米国側との連絡・交渉の必要を説いて説得したもよう。後年(1960年代)、ブルックの日記が公開され、航海技術が不十分な日本人に代わって米国人乗組員が全般的に咸臨丸を動かしたことが明らかになりました。 出港直後から荒天が続き、浦賀を出てサンフランシスコに着くまでの38日間のうち34日間が荒れ、一度だけ米国の船に遭遇したものの、あとは牙をむく空と海のみ。福沢いわく「牢屋に入って毎日毎夜大地震」のような状態だったようです。舟は45度傾くと沈むそうですが、咸臨丸は38度まで傾いたとか。甲板の下の船室の天井にある窓からも海の波が見えたと言うのですから、生きた心地がしませんね。乗組員はひどい船酔いとなり、 体力を消耗して米国に着いてから命を落とした人もいたほどです。艦長の木村と指揮官の勝からして航海中はほとんど船酔い状態でした。子母沢 寛は小説『勝 海舟』で次のように書いています。 ・・・佐々倉が倒れた、鈴藤が倒れた、運用方では浜口興右衛門一人がまだ元気でいるという知らせが、艦長室へ来た。浦賀同心で長崎伝習は第一期生だ。伴も少し怪しくなりかけている。 松岡は倒れた、が小野友五郎だけは、相変わらず六分儀をにらんで平気でいるとのことだ。 と冗談がでるほど福沢は元気だったとしていますが、ジョン万次郎以外の日本人は全滅だったとも言われています。 ジョン万次郎は、天保12年(1841年)、漁り中に嵐で流されて無人島「鳥島」に漂着し、その後救出されて米国と日本で活躍した人です。九死に一生を得た経験の持ち主なので、咸臨丸の揺れぐらいはなんともなかったのかもしれません。咸臨丸では日本の乗組員と米国の乗組員との調整役として活躍しました。
上の子母沢の文章にも出てきますが、測量方の小野友五郎の働きは、米国の乗組員からも高く評価されました。今どこにいるかが分からなければ船は迷走するしかありません。目印のない太平洋のど真ん中で、現在位置を確かめるという難しい仕事を小野はやり切りました。 往路は米国人がほとんど咸臨丸を操縦しましたが、帰路は日本人が概ね操船し太平洋横断を成し遂げることが出来たようです(往路で乗艦した米国人水夫を5名雇ったが)。 米国で、勝らは、五階建ての瀟酒なホテルに案内され、知事や市長に招待されたり、舞踏会に参加したり、砲台、病院、造幣局、印刷所、消防所、劇場、造船所、鉱山などを見学しています。議会を見学し、そこで展開されている議会政治、民主主義、平等の精神に触れたことも大きな収穫だったでしょう。それらに触れた彼らが中心になって、 日本の近代化を計っていけば良かったのであって、薩摩や長州がテロ行為や策謀でもって日本をひっくり返す必要など全くなかったのです(無駄に血がたくさん流れた)。 後のこととなりますが、勝は、偶然にも、米国に向けて浦賀を出帆した39年後の1月19日(明治32年)、あの世に出帆。 咸臨丸はその後、小笠原諸島の開拓に利用され、明治元年(1868年)には榎本武揚らの江戸脱出の際の一艘となり、数奇な運命を辿ります。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |