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作家の経済(作家の質屋利用、企業との専属契約、新聞連載、印税など)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川端康成。余裕の面持ちですが・・・ ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典 : ウィキペディア/川端康成(平成26年5月19日更新版)→

 

昭和4年5月26日(1929年。 川端康成(29歳)が、当地(東京都大田区蒲田)にあった質屋を利用しています。台帳に次の記録が残っているとのこと。

「婦人用単衣を質草に4円85銭借り、六月三十日弁済」。

ある日、秀子夫人が臼田坂で転び流産してしまい、そのショックからか川端は仕事に手がつかなくなりました。心配した知り合いが質草を提供してくれて、川端夫妻はそれでしのいだようです。

ふだんの川端は、当地の作家の中では貴重な「家賃を払う能力がある」作家でした。当地(東京都大田区)に来る前、熱海にいたときなどは、鳥尾子爵という人の別荘を1ヶ月120円で借りています。 市営アパートの家賃が6畳2間で20円の時代なので、その約5~6倍です。お金の使い方が大胆というか潔いというか、「家賃が高くとも安くとも、どうせ金は残らない」 というのが持論だったとか。

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執筆だけで生活していくのは並大抵のことでないでしょう。原稿料が少々入っても次にそれが入る保証はありません。フリーランスのつらいところです。だから、オファーがあるときは、身体を壊してまでも、書けるだけ書いて稼ごうとする人が出てきます。

坂口安吾

昭和21年に発表した『堕落論 Amazon→』で大ブレイクした坂口安吾(39歳)が、ヒロポンを打ちながら、4日間一睡もしないで執筆したりしたのは、そういった不安に急かされる面もあったのではないでしょうか。

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夏目漱石

そこらへんで手堅い例としてよく挙げられるのが夏目漱石ですね。彼は第一高等学校(現・東京大学)、東京帝国大学英文科、明治大学で教鞭をとっていましたが、明治40年(40歳。漱石の満年齢と明治元号年は一致する)、朝日新聞社から招聘の話があります。漱石は明治38年に『吾輩は猫である Amazon→』で人気を博していました。手当、身分保障、執筆条件、出版権の確保、退職後の希望などを出し、それが受け入れられたために同意、全ての教職を辞して朝日新聞社の社員になります。月給200円で、年に一度、新聞連載100回ほどの小説を書くことが条件だったそうです。人気のときだけ使われて、あとでポイじゃたまらないですからね。ちなみに、社員になって最初に連載したのが、当地(東京都大田区)が重要な舞台として出てくる『虞美人草』。

芥川龍之介

芥川龍之介も企業の社員になっています。すでに『地獄変 Amazon→』を「毎日新聞」に連載していましたが、大正8年(27歳)、横須賀の海軍機関学校の教職を辞して、年に何本かの小説を書くことと、他の新聞に書かないことを条件に大阪新聞社の社員になりました。出勤の義務がない書くだけの社員です。漱石の弟子だけになかなか手堅いです。

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漱石芥川のように企業と専属契約を結べた作家は一握りで、というかひょっとしたらこの二人だけかもしれませんね。大半は来月の家賃が払えるかとビクビク、といったところでしょうか。

それでも、時たま、運良く、作家に大金が転がり込むことがあります。一つは新聞連載。現在はいかほどか分かりませんが、かつては新聞連載を一回すれば家が建ったといいます。

あと、継続的に売れるようになれば、印税で生活が安定することもあったようです。

大正末から昭和初期にかけて一冊一円の薄利多売の全集物がブームになります(円本ブーム)。大正15年の改造社刊「現代日本文学全集」(63巻)が25万部出たのを皮切りに、新潮社刊「世界文学全集」(57巻)が40万部、春秋社刊「世界大思想全集」(126巻)が10万部、アルス刊「日本児童文庫」(76巻)が30万部、といった具合に続々と刊行されました。家に全集をずらーっと並べることが知的階級の証しのように考えられたのかもしれません。円本の執筆者や翻訳者に選ばれた一部の作家の生活はかなり安定したようです。

吉屋信子

吉屋信子(出発時32歳)の昭和3年から4年にかけての1年にもわたる海外見聞には、新潮社の円本「現代長編小説全集」の一冊『吉屋信子集』の印税2万円があてられました。当時の2万円は現在の3,500万円ほどでしょうか(昭和9年の消費者物価指数を1とすると平成19年では1788ほど。1788×2でおよそ3,500)。

「あたるとデカイ印税」の話の続きでいうと、村上 龍さんは芥川賞を受けたとき、授賞式に着ていく“ちゃんとした服”がないほど窮乏していたようですが(“ちゃんとした服”なんて持たないポリシーだったのかもしれませんが)、その後、 受賞作の『限りなく透明に近いブルー』が130万部ほど売れ、1億5,000万円ほどの収入得たと推測されています(日垣『売文生活』)。

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むちゃくちゃ家賃の高いところに住んでしまう川端にしても、旅に印税を突っ込んでしまう吉屋にしても、作品の肥やしになるのならなんでもやる、言い換えると、生きて書いていけるだけのお金があれば、それ以上貯めようとは思わなかったのではないでしょうか。

山本周五郎の場合はよりはっきりしていて、金を持たない主義でした。持ち金は使い切り、自らを経済的な崖っぷちに追い込んでから書いたようです。経済的に余裕があったりしたら、貧しい人たちの実感など書けないでしょうからね?

徳富蘆花は2度長期間にわたる世界旅行をしています。1度目は、明治39年(38歳)の、パレスチナ巡礼とトルストイに会うことを主目的にした旅で、およそ4ヶ月間。2度目は大正8年から9年にかけて(50〜51歳)、1年以上も世界各国を巡っています。2度目の時は夫人も伴っており、たいへんな出費だったと思います。蘆花は明治31年(30歳)の『 不如帰 ほととぎす 』など大ヒット作を飛ばして相当稼いだとは思いますが、それでも大冒険だったことでしょう。明治42年(41歳)から大正6年(49歳)までの総収入が日記に記されており、9年間で4万5,500円あったといいますが、その9年間に、熱烈なクリスチャンだった蘆花は、教会に1万1,000円(公務員給与の157ヶ月分)も献金しています。大旅行といい莫大な献金といい、そんなだったので、蘆花の通帳の繰越額はいつも数百円ほどだったとか。

山本芳明『カネと文学 〜日本近代文学の経済史〜 (新潮選書) 』 日垣 隆『売文生活 (ちくま新書)』
山本芳明『カネと文学 〜日本近代文学の経済史〜 (新潮選書) 』 日垣 隆『売文生活 (ちくま新書)』

■ 馬込文学マラソン:
川端康成の『雪国』を読む→
芥川龍之介の『魔術』を読む→
吉屋信子の『花物語』を読む→
山本周五郎の『樅ノ木は残った』を読む→

■ 参考文献:
●『山本周五郎 馬込時代』(木村久邇典 福武書店 昭和58年発行) P.70-71、P.79-81 ●『川端康成とともに』(川端秀子 新潮社 昭和58年発行)P.38-40 ●『坂口安吾(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年初版発行 平成4年5刷参照)P.81-83 ●『夏目漱石(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年初版発行 平成13年18刷参照)P.70-71、P.106-107 ●『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年初版発行 昭和58年2刷参照)P.34-35 ●『売文生活(ちくま新書)』(日垣 隆 平成17年発行)P.23 ●『吉屋信子 隠れフェミニスト』(駒尺喜美 リブロポート 平成8年発行) P.270 ●『断髪のモダンガール(文春文庫)』(森 まゆみ 文藝春秋 平成22年発行) P.190-204 ●『私の見た人(朝日文庫)』(吉屋信子 朝日新聞社 昭和54年発行)P.20-25 ●『ゆめはるか吉屋信子(上)』(田辺聖子 朝日新聞社 平成11年発行) P.542-554

■ 参考サイト:
ウィキペディア/円本(平成29年3月21日更新版)→ ●日本銀行/教えて!にちぎん/金融の歴史、豆知識/昭和40年の 1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか?→

※当ページの最終修正年月日
2019.5.26

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