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万延元年5月26日(1860年。
笠間藩士の 同年(万延元年)1月19日に浦賀から出帆した咸臨丸に、小野は、測量方として同乗、活躍しました。* 乗船した105名は、連日の荒天で(38日の航海中34日間が荒天だった)、船は沈没寸前まで翻弄されました。艦長の木村摂津守(木村芥舟。28歳)、指揮官の勝 海舟(36歳)をはじめほとんどが極度の船酔いとなり、あるいは恐れ、あるいは寝込み、食事も十分に取れない状態で、ほとんど使い物にならなかったようです。咸臨丸が無事米国に到達できたのは、ブルック海軍大尉(33歳)ら11名の米国の船乗りが同乗しており、彼らがほとんど船の操縦をこなしたからなのです。* そのような状況下で、職務を全うできた日本人は、通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)、運用方の浜口興右衛門、そして、測量方の小野友五郎でした。日本人94名中たった3人です(最年少の乗組員・斎藤留蔵の『亜行日記』による)。* 子母沢 寛も小説『勝 海舟』で、小野の頼もしさを次のように記しています。* ・・・ブルーク大尉が、通弁主任の中浜万次郎をつれて艦長室へやって来た。・・・(中略)・・・実測経緯度を知らせに来たという。麟太郎は、それは、そっちの手をかりなくても、こちらにも測量方というがある。と無愛想にいってから、おい、富蔵、小野に経緯表を持って来いと云って来い。といった。 太平洋のど真ん中で、なぜ、何度何分まで経緯度が分かるのでしょう。* 咸臨丸では、太陽が南中する時(赤道と直交する子午線を通過する時)を正午として、船の経緯度を確認したそうです。太陽が南中する時(その日一番高くなる時)、その高度(水平線からの角度)を
経度は、太陽が東西方向に近い時の高度を測量して地方時を算出、また、クロノメーター(船の揺れや温度変化に影響されずらい高性能の時計)で世界時(英国のグリニッチの地方時))を確認して、2つの時間の差を角度に換算して求めるとのこと。時間が4分狂うと経度が1度も違ってくるので、クロノメーターの精度が重要になってきます。咸臨丸では、日本側が3個、ブルックらは8個も所持。緯度の算出よりかなり難しいようです。* 小野友五郎は、こんな難しいことが、この時代に、どうやってできるようになったのでしょう?* 小野は、文化14年(1817年)、笠間藩士の四男として生まれ(笠間藩は現在の茨城県笠間市(Map→)あたり)*、20歳で寺社方手代となりますが、飽き足らず、数学を猛勉強します。笠間藩の算術世話役の甲斐駒蔵から測量術を学び、甲斐と著した『量地図説』(全2巻)で認められて、幕府の天文方となります。江戸でも江川英龍に師事して、砲術・軍学・オランダ語を学び、オランダの航海術書を翻訳した『渡海新論』(全4巻)が認められて、幕府からの命令で長崎の海軍伝習所に入学、そこで、オランダ人から教わって、六分儀やクロノメーターを使った経緯度の測量・算出方法も身につけました。20歳前後から学んだ和算の素養も、洋算も西洋の測量法の習得に役立ったことでしょう。*
咸臨丸の乗組員の中では最年長(乗船時42歳)で、仲間からとても尊敬されていました。(海舟とは違って?)、米国のブルックらとも親しく交わり、ブルックは知っていることを小野に何でも教えようとしたそうです。* 復路は、ブルックらはおらず、ほぼ日本人だけで航海し(「ほぼ」ということは皆無ではなかった?)、浦賀に帰着。小野友五郎と浜口興右衛門が実質的な指揮者となりました。* 帰国後の小野は、咸臨丸の艦長として、小笠原諸島を航海。調査・測量して正確な地図を作りました。初の国産蒸気軍艦「千代田 明治になると、日本初の鉄道(新橋〜横浜)の建設に、測量技師長として参画。新橋と横浜の間にある当地(東京都大田区)にも、当然足を運ぶことがあったことでしょう。*
測量といえば、国土の姿を初めて正確に示した「大日本沿海
海岸線が曲がる箇所に目印の杭を立てて測点として、測点と測点の角度(一方の測点を基点とし、もう一方が北からどれだけ傾いているか)と、測点間の距離を測量して海岸線を描いていったようです(「導線法」)。ただし、この方法だけだと、測点を繋いでいくうちに誤差が重なって大きくなるので、各測点から見える山の頂点などを目標物とし、各測点から目標物までの角度を測り、導線法で描かれた各測点から目標物までの角度がそうなっているか確かめる「交会法」も併用されました。*
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |