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漂流する(天保12年6月4日(1841年)、ジョン万次郎ら、143日ぶりに救出される)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中浜万次郎

天保12年6月4日(1841年。 無人の鳥島とりしま (東京都。都心から南へ600kmほど Map→)に漂着し生死の境にあった中浜万次郎(中の浜の万次郎。後のジョン万次郎。ジョン・マン John Mung。14歳)ら5名の土佐の漁師たちが、沖合に米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号を発見、衣類を竿にかけて高い所に立て、手を広げて救援を求めます。5人は翌5日、救い出されました(日付について異説あり)。

万次郎は9歳で父親を亡くし、5人の兄妹を女手一つで育てていた母親を助け(兄は病弱だった)、1年前(13歳頃)から海に出ていました。その年の1月5日、 あじさば 漁の船に炊事・雑用係として乗船、宇佐浦うさうら(高知県高知市宇佐町 Map→)を出帆します。

最初宇佐浦の沖に延縄はえなわ(太い縄から枝分かれさせた複数の延縄を垂らしその先端に釣り針をつけて多くの魚を獲る漁法)を仕掛けますが収獲がなく、足摺あしずり 岬(高知県土佐清水市 Map→)の方に移動したところ突風があり、あれよあれよと流されたようです。

風で帆柱も倒れ(海外へ渡航しないよう帆柱は1本だけに制限されていた)、舵も帆布も波にさらわれてもはや操船不能となって、漂流します。

そして、5日半(10日とも)の漂流の末に、鳥島に流れ着いたとのこと。海上にポツンとある孤島に(伊豆諸島の1つ。周囲が6.5〜8kmほど)、よく漂着できたものです。その無人島で、5人は143日間生き延びます。

ジョン・ハウランド号に助けられた5人のうち4人はハワイで下ろされますが、万次郎だけは船長ホイットフィールドに気に入られ、彼の養子になって米国で、英語・数学・測量・航海術・造船技術・民主主義・男女平等などを学びます。ジョン・ハウランド号から 「ジョン」をとってジョン万次郎と呼ばれるようになります。

万次郎の帰国は10年後の嘉永4年(1851年。24歳)で、長崎奉行所をへて、翌嘉永5年(1852年)土佐に帰還、10年間の顛末を語りました。土佐藩の狩野派の絵師であり思想家でもあった 河田小龍かわだ・しょうりょうが、万次郎を自宅に住まわせ、聞き取りをし、絵付きで記録したのが『漂巽紀畧ひょうそんきりゃく 』です。鉄道や建築、社会制度、風俗にまで言及され、この書を通して“西洋”に触れた日本人がたくさんいたことでしょう。

その後、万次郎は、幕府に招聘され、航海術の書籍の翻訳、捕鯨の指導などに従事。万延元年(1860年。32歳)の咸臨丸の乗組員にも抜擢され、通訳として活躍しました。

中浜万次郎

万次郎一行が鳥島に漂着したのは黒潮の影響のようです。黒潮は、世界最大規模の海流で(世界二大海流の一つ)、流れが速いことでも有名です。東シナ海方面より流れてきて、台湾と石垣島の間を抜けたあと、九州・四国方向に転じ、 足摺あしずり 岬あたりで四国に接近、そのあとは日本の南岸沿いに東北地方まで達しますが、日本の南岸から大きく離れて蛇行する流路も比較的安定的に存在し(黒潮大蛇行)、その蛇行ルート上あたりに鳥島があります。

万次郎一行は島に到着143日後で救出されましたが、天明5年(1785年)に船が難破して鳥島に流れ着いた野村長平などは12年と4ヶ月間も鳥島で生き延びました(漂着時は3名いたが2年以内に2人は死亡)。後に漂着した者たちと船を作って、青島、八丈島をへて故郷の土佐へ帰還しますが、地元ではその時ちょうど彼の13回忌の供養をやっていたとか(帰還時の年齢は37歳)。『ロビンソン・クルーソー』Amazon→や『十五少年漂流記』Amazon→に匹敵する冒険譚ですね。吉村 昭の『漂流』Amazon→は、長平のサバイバルを追った長編ドキュメンタリー風小説です。

沖の大夫 沖の大夫

無人で島全体が一つの岩山のような鳥島で、漂着した人たちが生き延びることができたのは、「沖の 大夫 たゆう 」がいたからです。100万羽ほどの「沖の大夫」で島を白くなるほどだったようです。人が近づいても逃げないことから「アホウドリ」と蔑称されていますが、それを獲って食料にしなければ、人々は生き延びることができなかったことでしょう。「太夫」は芸能人や遊女の敬称なので、「沖の太夫」の方がいいですね。

記録に残るだけでも江戸時代、100人以上が鳥島に漂着し、この絶海の孤島から80名あまりも生還しています。

アホウドリ

万次郎らの漂流の9年前(天保3年。1831年)、尾張の船「宝順丸」が1年間漂流後、音吉ら3名の生存者が米国に漂着しています。

天保8年(1837年)に来航した米国の商船「モリソン号」には、音吉ら7名(他に岩吉、久吉、 庄蔵しょうぞう 、寿三郎、熊太郎、力松)も乗っていました。「モリソン号」は、漂流民送還を、貿易と布教の端緒を開くためのカードにしようとしたようです。しかし、日本は「異国船打払令」(1825-1842年。アヘン戦争で欧米列強の凶暴さが露わになるや解除)にもとづき「モリソン号」を砲撃、追い払います。こういった幕府の排外的な政策を批判した渡辺崋山や高野長英は逮捕されました(「 蛮社ばんしゃ の獄」。蛮社とは南の学問(蘭学)の 中の意。国学者らからの蔑称か)。

江戸時代以前の海上運航技術が未発達な時代は、日本人に限らず、漂流する人が少なくありませんでした。徳川家康の外交顧問となって、洋式帆船の建造や英国との通商に尽力した三浦按針も元は漂流民でした。慶長5年(1600年)現在の大分県に漂着(35歳)、英国名のウィリアム・アダムスでピンとくる方も多いことでしょう。アダムスと同じ船に乗っていたオランダ人ヤン・ヨーステンも漂着し、家康の外交・貿易の顧問として活躍しました。

縄文人は、東南アジアから黒潮に乗って漂流してきた人たちの血が濃いと考えられます。

『漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく) 〜全現代語訳〜 (講談社学術文庫)』。述:ジョン万次郎、記・図版:河田小龍(かわだ・しょうりょう) マーギー・プロイス『ジョン万次郎 ~海を渡ったサムライ魂~』(集英社)。訳:金原瑞人(かねはら・みずひと)。米国に残されている資料を元に書かれたとのこと
漂巽紀畧ひょうそんきりゃく 〜全現代語訳〜 (講談社学術文庫)』。述:ジョン万次郎、記・図版:河田小龍かわだ・しょうりょう マーギー・プロイス『ジョン万次郎 ~海を渡ったサムライ魂~』(集英社)。訳:金原瑞人かねはら・みずひと 。米国に残されている資料を元に書かれたとのこと
高橋大輔『漂流の島 〜江戸時代の鳥島漂流民たちを追う〜』(草思社) 春名 徹『にっぽん音吉漂流記 (中公文庫) 』
高橋大輔『漂流の島 〜江戸時代の鳥島漂流民たちを追う〜』(草思社) 春名 徹『にっぽん音吉漂流記 (中公文庫) 』

■ 参考資料:
●『ジョン万次郎漂流記(角川文庫)』(井伏鱒二 昭和54年発行)P.6-14、「解説」(沼田卓爾) ●「かつおやまぐろはどうやって捕まえるの?」まるこすいさん→ ●『漂流奇談全集』(編・校訂:石井研堂 博文館 明治41年発行)P.907-910NDL→ ●「中浜万次郎」(春名 徹)※「朝日日本歴史人物事典 」(朝日新聞出版)に収録コトバンク→ ●「黒潮」(長坂昂一こういち 、石川孝一)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」コトバンク→ ●『幕末史(新潮文庫)』(半藤一利 平成24年発行)P.16-27 ●「音吉」(春名 徹)※「朝日日本歴史人物事典」(朝日新聞出版)に収録コトバンク→ ●「モリソン号事件」(加藤榮一)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」コトバンク→ ●「漂流」(梶 龍雄)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」コトバンク→) ●「三浦按針」(榛名 徹)※「朝日日本歴史人物事典 」(朝日新聞出版)に収録コトバンク→ ●「ヤン・ヨーステン」(沼田 哲)※「日本大百科全書(ニッポニカ) 」(小学館)に収録コトバンク→

■ 参考映像:
●「漂流アドベンチャー 〜黒潮に乗って奇跡の島へ〜(プレミアムカフェ)(NHK BSプレミアム)(司会:渡邊あゆみ、旅人:池内博之、ゲスト:鈴木光司)

※当ページの最終修正年月日
2023.6.6

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