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大正6年2月23日(1917年。
水蔭は自宅に「太古遺物陳列所」(東京都品川区南品川一丁目(Map→)あたりにあった。上の水蔭の丸写真をクリックすると「太古遺物陳列所」の外観を見ることができる)を開設するほどのディープな発掘マニアでした。そして、日々発掘しているうちに、縄文人はコロボックルに違いないと考えるようになります。根拠が特にあるわけでなく、直感でそう思ったとのこと。コロボックルは、アイヌが住む前の北海道に住んでいたとされる民族です(北千島に住んでいたアイヌという説も)。 『三千年前』では、多摩川の向こう側(神奈川県川崎側)まで、鉄製の刀や矢じりを持つ和人が迫って来ており、石の斧や矢じりしか持たない多摩川のこちら側(東京都大田区側)のコロボックルたちを脅かしています。いつもぷらぷらしているコロボックルのヌマンベ(「
日本初の人類学者といわれる坪井
坪井に先立ち明治11年、モース(40歳)が「(縄文人)プレ・アイヌ説」を提唱しました。モースは当地の大森貝塚から出土された人骨に食人風習の痕跡があると考え、食人風習と温厚なアイヌとを結びつけるのは難しいとし(「プレ・アイヌ説」を提唱した年(明治11年)、モースは北海道でアイヌと交流している)、アイヌ以前にさらに先住民族がいたと考えたのでした。坪井はそれがコロボックルとしたのでしょうね。そして、それを水蔭も引き継いだ。 「アイヌ説」にしても、「プレ・アイヌ説」にしても、「コロボックル説」にしても、和人が住む前に他の民族が住んでいたとするもので、和人がその先住民を追い出したとする「民族交替説」ですが、この説は現在はほとんど顧みられないようです。 人類は約390万年前にアフリカで誕生し、世界に広がっていきます。更新世(約258万年前〜約1万年前。無土器時代を含む縄文時代以前の人類(新人(完新世に連なる)・旧人・原人・猿人(更新世以前の第三紀末より存在))が生存した時代)は概して氷河期で、大量の水が氷結したために海面の水位が100mほども下がり、日本列島はサハリンや対馬あたりでアジア大陸と地続きで人が行き来したようです。縄文人の祖先である無土器時代(旧石器時代)人の骨が日本列島にほとんど残っていないため詳らかになりませんが(日本列島の土壌は酸性が強く骨が溶けてしまう)、縄文人の骨のミトコンドリアDNAの分析によって、南方系アジア(アイヌの祖先だろうか)と北方系アジア人とが日本列島内で混血して縄文人が形成されたと考えられています。その後、北方系アジア人が九州や四国、そして近畿へと勢力を広げていき弥生人が形成されていきますが(紀元前1,000年ごろから)、その勢力圏から距離がある北海道と沖縄はその影響を受けるのに時間がかかり、縄文人の文化と身体の形質をより多く保持したようです。アイヌと琉球人の文化と身体の形質に類似点が多いのはそれである程度説明できそうです。 紀元前10万年から9万年間にもわたった無土器文化(旧石器文化)が、紀元前1万年頃から劇的に変容し土器文化(縄文文化)が始まる、その大きな要因は、気候の変動でした。紀元前1万6,000年頃から温暖化していき、海水が上昇(縄文海進)し漁労に適した入江を多く形成、動物相にも変化があって獲物に適した日本鹿や猪が繁殖し始めます。それに応じて、漁労道具、狩猟道具として石器・骨角器が発達(弓矢・ 当地(東京都大田区・品川区)の「大森貝塚」は有名ですが、他にも、下図のように計11もの縄文時代の遺跡があります(顕著なものに限っても)。遺跡の年代の古いものから番号を振りました。所定の箇所をクリックすると簡単な情報が出ます。 9,000年にもわたる縄文時代は、草創期、早期、前期、中期後期、晩期の全6期に区分されており、❶「 地図に遺跡の位置を配してみて、鉄道や道路の近辺に集中しているのに気がつきました。鉄道や道路を敷設する際の大規模な工事(地面の掘り返し)の最中に遺跡が見つかるのかもしれません。あるいは、鉄道や道路が概して大昔から現代に到るまでの「人が住むのに適した場所」に敷設されるということ多少はあるでしょうか?
■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |