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モースによる大森貝塚の報告書にある図版(モースの指示で木村静山が描いた)を使用 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『日本考古学は品川lから始まった ~大森貝塚と東京の貝塚~』(東京都品川区立品川歴史館) 明治12年1月5日(1879年。 モース(40歳)が、帝国大学の生物学会で、ショッキングな発表をしました。大森貝塚(「大森貝塚遺跡庭園」(東京都品川区大井六丁目21-6 Map→))から、食人風習の証拠が見つかったというものです。 モースは2年前の明治10年6月17日に来日、3ヶ月後くらいから大森貝塚の発掘に着手しますが、一回目の調査の時から、「カニバル・ヴィレージ(cannibal village=食人する人たちの村)を訪れてきた」とモースが話すのを、同行した村松 モースは大森貝塚で7体ほど人骨を見つけますが、どんな理由から「食人風習あり」と推論したのでしょう? 大森貝塚に関連して最も興味ある発見の一つは、そこでみられた食人風習の証拠である。これは、日本に人喰い人種がいたことを、初めてしめす資料である。人骨は、イノシシ・シカその他の獣骨と混在した状況でみいだされている。これらは獣骨と同様、すべて割れていた。これは、髄を得る目的か、その長さのままで煮るには土器が小さすぎるため、煮るに便利なように割ったのである。人骨各部分は、発見された際に、まったくばらばらであった。・・・(中略)・・・ひっかいたり切りこんだりした傷がいちじるしい骨もある。これはことに、筋肉の付着面、すなわち苦労して骨から筋肉をとり離さなければならない箇所に著しい。割れ方自体が、はっきり人為的とわかるものもあり、筋肉の付着面に深く切りこみをいれてあるものもある。・・・(モース『大森貝塚』より) モースは熊本県の大野貝塚(「氷川町ウォーキングセンター」(熊本県八代郡氷川町大野919-897 Map→)が建っているあたり)も調査していますが、そこでも「食人風習の明白な証拠をひじょうに多く発見した」と書いています。 このようにモースは日本にも食人風習があったと推測しましたが、一方、日本の1500年以上も前から残された史料に、食人についての記述がないことに首をかしげています。また、有史以後の日本人に敬虔な埋葬文化があることも認めました。大森貝塚人が食人せざるを得ない極限状況(たとえば飢餓とか)に遭遇したとも考えずらく、新事実の判明を待つといったことも書いています。
モースの食人についての発表から62年経った昭和16年、大山 モースは次のようにも書いています。 ・・・たとえ最も高い文明の種族であろうと、食物がじゅうぶんに供給されなければ、必然的に人を食べるという極限状況においこまれる。・・・(モース『大森貝塚』より) 食の欠乏が生存を脅かすとき、人が人を食するといった事態になる事例は少なくありません。日本でも幾度となく発生しました。 昭和18年にも難破船の船長が死亡した乗組員の肉を食べて生き延びるといった事件が発生します(「昭和18年の食人事件」。「ひかりごけ事件」と呼ぶのは不適切。以下参照)。昭和18年12月、日本陸軍の徴用船「第五精神丸」が大シケにあって知床半島のペキンノ鼻(map→)付近に漂着、乗組員7名は離れ離れとなりますが、船長(29歳)は番屋にたどり着きました。しばらくして、最年少の青年(18歳)も番屋にたどり着いて、ここで2人は1ヶ月以上を過ごします。が、極寒と食料欠乏のため青年の方が衰弱して死亡、船長が彼の遺体を口にしたというものです。 2ヶ月後(昭和19年2月)、船長は、漁師の家を見出して助けを求め、生還。過酷な状況を生き抜いたということで、当初は「奇跡の神兵」と賞賛されましたが、食人したことが判明するや、一転、罪に問われ(刑法には食人についての規定がないため、死体遺棄と死体損壊の罪に問われた)、懲役1年の判決がおります。自分が生き残るために殺して食人したのではなく、死肉を食したのだから、現在なら、極限状況下での「緊急避難」と考えられ罪に問われなかったとの見解が示されています。 この事件に触発され36年後の昭和29年に発表された武田泰淳(42歳)の小説『ひかりごけ』は、4人が生き残ったとして書かれます。船長のほか、若い西川、真っ先に衰弱した五助、あと八蔵が登場。五助が死んだ後、船長は生き残るために五助を食べることの正当性を主張。西川は反発しながらも、飢餓に耐えかねて、船長とともに五助を食べます。「自分を食べないでくれ」と言う五助と約束を交わした八蔵は、約束を守り、そして自らも衰弱して死んでいきました。五助を食べた2人が生き残ります。 西川は船長を恐れます。船長は自分が死ぬのを待っているのだろうと。そして、自分を食うのだろうと。西川に殺意が生じます。刃物をとった西川を船長は反対に殺害。武田はここで、「人が死ぬのを待ってそれを食う」(船長の立場)のと「人を殺す」(西川の立場)のとではどちらがより罪深いかを問いかけてきます。 武田が『ひかりごけ』で行った問題提起は興味深いものですが、作中、船長が西川を殺したことが曲解されて、実際の船長が自分が生きるために船員を殺したという風説が広がりました。船長は深い自責の念を持っていましたが、それに輪をかけ、世間からの攻撃に苦しむこととなります。モデルのある小説は極めてデリケートなものであり、武田の小説家としての倫理性も問われなくてはならないかもしれません。
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