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縄文人とは?(大正6年2月23日、江見水蔭の考古小説『三千年前』、発行される)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

江見水蔭

大正6年2月23日(1917年。 江見水蔭えみ・すいいん (47歳)の考古小説『三千年前』NDL→が発行されました。水蔭の考古学三部作一つです。

水蔭は自宅に「太古遺物陳列所」(東京都品川区南品川一丁目Map→あたりにあった。上の水蔭の丸写真をクリックすると「太古遺物陳列所」の外観を見ることができる)を開設するほどのディープな発掘マニアでした。そして、日々発掘しているうちに、縄文人コロボックルに違いないと考えるようになります。根拠が特にあるわけでなく、直感でそう思ったとのこと。コロボックルは、アイヌが住む前の北海道に住んでいたとされる民族です(北千島に住んでいたアイヌという説も)。

『三千年前』では、多摩川の向こう側(神奈川県川崎側)まで、鉄製の刀や矢じりを持つ和人が迫って来ており、石の斧や矢じりしか持たない多摩川のこちら側(東京都大田区側)のコロボックルたちを脅かしています。いつもぷらぷらしているコロボックルのヌマンベ(「 下沼部しもぬまべ 貝塚」(東京都大田区田園調布本町35-42 Map→)から取った名だろう)でしたが、一人多摩川を渡って和人の様子を探ぐり・・・。と、なかなか面白いです。この小説を読んで考古学に憧れた人も少なくなかったようです。『三千年前』が出版された大正6年(1917年)の三千年前は紀元前1,083年で、縄文時代から弥生時代への過渡期。その頃、このような民族(または部族)同士の戦いがあったでしょうか。

坪井正五郎
坪井正五郎

日本初の人類学者といわれる坪井 正五郎しょうごろう が、水蔭の「太古遺物陳列所」を訪れています。坪井は『三千年前』が出版される22年ほど前(明治28年頃。坪井32歳頃)から、和人(大和民族)が支配するまでの本州にコロボックルが住んでいたとする「(縄文人)コロボックル説」を主張していました。坪井は終生この説を堅持しましたが、友人や弟子からも否定され、大正2年に坪井が死去すると、その後この説はほとんど取り上げられなくなります。坪井の死の4年後に発行された『三千年前』には、死せる坪井の無念を晴らす目的もあったかもしれません。

モース

坪井に先立ち明治11年、モース(40歳)が「(縄文人)プレ・アイヌ説」を提唱しました。モースは当地の大森貝塚から出土された人骨に食人風習の痕跡があると考え、食人風習と温厚なアイヌとを結びつけるのは難しいとし(「プレ・アイヌ説」を提唱した年(明治11年)、モースは北海道でアイヌと交流している)、アイヌ以前にさらに先住民族がいたと考えたのでした。坪井はそれがコロボックルとしたのでしょうね。そして、それを水蔭も引き継いだ。

「アイヌ説」にしても、「プレ・アイヌ説」にしても、「コロボックル説」にしても、和人が住む前に他の民族が住んでいたとするもので、和人がその先住民を追い出したとする「民族交替説」ですが、この説は現在はほとんど顧みられないようです。

人類は約390万年前にアフリカで誕生し、世界に広がっていきます。更新世(約258万年前〜約1万年前。無土器時代を含む縄文時代以前の人類(新人(完新世に連なる)・旧人・原人・猿人(更新世以前の第三紀末より存在))が生存した時代)は概して氷河期で、大量の水が氷結したために海面の水位が100mほども下がり、日本列島はサハリンや対馬あたりでアジア大陸と地続きで人が行き来したようです。縄文人の祖先である無土器時代(旧石器時代)人の骨が日本列島にほとんど残っていないため詳らかになりませんが(日本列島の土壌は酸性が強く骨が溶けてしまう)、縄文人の骨のミトコンドリアDNAの分析によって、南方系アジア(アイヌの祖先だろうか)と北方系アジア人とが日本列島内で混血して縄文人が形成されたと考えられています。その後、北方系アジア人が九州や四国、そして近畿へと勢力を広げていき弥生人が形成されていきますが(紀元前1,000年ごろから)、その勢力圏から距離がある北海道と沖縄はその影響を受けるのに時間がかかり、縄文人の文化と身体の形質をより多く保持したようです。アイヌと琉球人の文化と身体の形質に類似点が多いのはそれである程度説明できそうです。

紀元前10万年から9万年間にもわたった無土器文化(旧石器文化)が、紀元前1万年頃から劇的に変容し土器文化(縄文文化)が始まる、その大きな要因は、気候の変動でした。紀元前1万6,000年頃から温暖化していき、海水が上昇(縄文海進)し漁労に適した入江を多く形成、動物相にも変化があって獲物に適した日本鹿や猪が繁殖し始めます。それに応じて、漁労道具、狩猟道具として石器・骨角器が発達(弓矢・もり・釣針など)。温暖化は植物相にも影響し、栗・胡桃くるみとち ・ドングリなどが繁茂し、その実が縄文人の主食になりました。それらの実をあく抜くため、また貯蔵するために土器も生まれ、煮炊き文化も促進します。食料が安定的に得られるようになって定住化が進み竪穴住居が作られ、また、生活廃棄物を蓄積したところが貝塚になりました。

当地(東京都大田区・品川区)の「大森貝塚」は有名ですが、他にも、下図のように計11もの縄文時代の遺跡があります(顕著なものに限っても)。遺跡の年代の古いものから番号を振りました。所定の箇所をクリックすると簡単な情報が出ます。

六郷用水地図 下沼部貝塚 雪ケ谷貝塚 馬込貝塚 大森貝塚 南馬込一丁目55番遺跡 山王三丁目遺跡 綱島園内遺跡 庄仙遺跡 久原小学校内遺跡 千鳥窪貝塚 田園調布南遺跡

9,000年にもわたる縄文時代は、草創期、早期、前期、中期後期、晩期の全6期に区分されており、❶「下沼部しもぬまべ 貝塚」(水蔭の『三千年前』の舞台として有名になった)には早期からの遺跡があり、モースが発見し「日本考古学発祥の地」となった⓫「大森貝塚」はもう少しで弥生時代になろうという後期から晩期にかけての遺跡です。

地図に遺跡の位置を配してみて、鉄道や道路の近辺に集中しているのに気がつきました。鉄道や道路を敷設する際の大規模な工事(地面の掘り返し)の最中に遺跡が見つかるのかもしれません。あるいは、鉄道や道路が概して大昔から現代に到るまでの「人が住むのに適した場所」に敷設されるということ多少はあるでしょうか?

埴原和郎 『日本人の誕生 ―人類はるかなる旅 (歴史文化ライブラリー)』(吉川弘文館) 篠田謙一 『DNAで語る 日本人起源論 (岩波現代全書)』
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山田康弘『縄文時代の歴史 (講談社現代新書)』 譽田(こんだ) 亜紀子『知られざる縄文ライフ〜え?貝塚ってゴミ捨て場じゃなかったんですか!?〜』(誠文堂新光社)
山田康弘『縄文時代の歴史 (講談社現代新書)』 譽田こんだ 亜紀子『知られざる縄文ライフ〜え?貝塚ってゴミ捨て場じゃなかったんですか!?〜』(誠文堂新光社)

■ 参考文献:
●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤 まこと五味ごみ文彦、高埜たかの利彦、鳥海とりうみ 靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷参照)P.2-15 ●『日本考古学は品川から始まった ~大森貝塚と東京の貝塚~』(東京都品川区立品川歴史館 平成19年発行)P.10、P.30、P.39-40、P.52-55、P.61、P.64 ●『日本人種論争の幕あけ ~モースと大森貝塚~』(吉岡郁夫 共立出版 昭和52年発行)P.12-19 ●『アイヌの歴史』(平山裕人 明石書房 平成26年発行)P.18-30 ●『大田区史年表』(監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行)P.2-3 ●『大昔の大田区 ~原始・古代の遺跡ガイドブック』(東京都大田区立郷土博物館 平成9年発行)P.4-5、P.29-31、P.52-56、P.63-74、P.106-107、P.111-113、P.123-125、P.127-128

※当ページの最終修正年月日
2024.2.24

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